聖書を開こう 2021年12月9日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  最初の確信を最後まで(ヘブライ3:16-19)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 気持ちを正しく伝えるというのは、簡単なようで難しい面があります。例えば、遠足に行く子供に対して、遠足で楽しい経験をいっぱいして、見分を広げてほしいと願ったとします。「楽しんでおいで」と送り出すだけで、十分気持ちが伝わるかもしれません。あるいは、もう少し具体的に「せっかくの楽しい遠足だから、友達と喧嘩したらだめだよ」と注意を喚起する場合もあるかもしれません。場合によっては、事細かく注意事項をあげるということもあるかもしれません。「うきうきした気持ちになって、うっかりけがをしないように」とか、「最初からおやつばっかり食べたらだめだよ」とか、「よそ見ばっかりして迷子にならないようにね」とか。どの注意も楽しい遠足になるためには欠かせません。しかし、聴き方を誤れば、遠足に行くのが億劫な気持ちになってしまうかもしれません。

 聖書も読み方を誤れば、うるさいお小言か、場合によっては脅しのように聞こえてしまうかもしれません。大切なことは、なぜそのことが言われているのか、その目的を理解することが大切です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 3章16節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は40年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

 きょう取り上げた個所は、前回から続く一連の警告のことばの締めくくりの部分です。前回の個所には詩編95編から引用しながら、「心をかたくなにしてはならない」という警告が繰り返されました。

 前回取り上げた個所では、心をかたくなにして不信仰に陥らないために、教会の交わりの中での励ましあいの重要性が特に強調されていました。聖書全体がそうですが「ヘブライ人ヘの手紙」の中でも、信仰者は一人孤立した存在ではありません。信仰の仲間がいて、共同体の中に生かされている信仰者の姿です。そのような信仰の交わりの中で信徒一人一人が成長していくことが、この手紙の著者の願いです。

 それに続いて記されるきょうの個所を、そこだけ切り取って読んでしまうと、不信仰を断罪する恐ろしい言葉が並んでいます。前回の個所で取り上げられていた詩編95編に出てくる過去のイスラエル民族の不信仰とその結果がそこには記されています。

 彼らはかつて、神から遣わされたモーセによってエジプトの奴隷状態から解放されて、約束の地を目指して旅立ちました。しかし、イスラエルの民は約束の地を目指す旅の途上で、早くも食べ物のこと飲み水のことで不平を漏らし、救いの約束を疑い始めます。約束された土地を探るために遣わされた者たちも、ヨシュアとカレブの二人を除いて、皆一致してこの約束の地には入るべきではないと、報告します。それはそこに住む住民が自分たちよりも強いと感じ恐れたためでした。こうして、神の恵みと力を疑う彼らの不信仰が、結局は彼ら自身を約束の地、安息の地から遠ざけてしまったのでした。

 この引用された聖書(詩編)の言葉を使えば、「不信仰」というのは、ただ何かを信じないという消極的な態度ではありません。むしろ、積極的な「反抗」として描かれています。かつてイスラエルの民は、神の約束をただ消極的な態度で信じなかったというのではありません。不信仰というのは、それだけで終わるものではありません。信じない結果、心に思い図ること、口から出る言葉、具体的な行動となって出ることのすべてが、神の御心に反し、しかも、それが正しいことのように確信をもって行われるのです。

 なぜ、ここまで辛辣に過去のイスラエル民族の失敗を思い出させる必要があったのでしょうか。仮に先週取り上げた個所、15節をもって一連の勧めの言葉が終わったとしても、手紙の著者か望んでいることは、十分に伝わったはずです。それは何よりも、この手紙を読んだ人たちが、滅びではなく救いに入れられることをこの手紙の著者が望んでいるからです。

 しかし、過去のイスラエル民族の失敗をあえてここに思い起こさせることには、大きな意味がありました。

 「福音」というのは、それ自体、良い知らせです。神の勝利を伝える良い知らせです。それは罪の奴隷であったわたしたちがキリストのゆえに解放されたことを告げる良き知らせです。罪の結果である死に対する復活のキリストの勝利を伝える知らせです。そういう意味では、この福音は信じて喜んで受け取るよりほかはありません。神がすでに実現してくださったことに対して、私たちが何かを付け足す必要もありません。

 しかし、この「福音」が語る「罪」の問題は、まさしく人間の罪の問題です。福音を受け入れるということは、わたしたちの中にある、どろどろとした罪の問題を抜きにしてはできません。罪に目を注げば注ぐほどに、福音の恵みを知ることができます。罪の現実を知るときにこそ、この福音が信じ続けるに値するものであることを確信できるようになるのです。

 自分の罪深さを忘れるときに、人間はあやういものとなります。わたしたちは確かにキリストのゆえに罪を赦していただきました。しかし、心の中が一気にすべて清められて、思い図ることのすべてが神の御心にいつも一致するようになったわけではありません。そういう意味で信仰者は完成の途上にある者です。そうであればこそ、かつてのイスラエル民族の失敗を自分のことのように考える必要があるのです。

 「ヘブライ人への手紙」の著者の願いは、何度も言いますが、明白です。この手紙を受け取った人たちが、かつてのイスラエル民族と同じ過ちを犯してしまうことを望んでいるのではありません。まして、恐怖心をあおって、信仰をくじこうとしているのでもありません。

 3章6節の言葉にさかのぼって言いますが、「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

 その確信にとどまり続け、キリストが治めてくださる神の家であり続けること、このことを願っています。

 さらにさかのぼって言えば、2章17節に記されているとおり、そのためにキリストは「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

 ここまで整えられているのですから、この大祭司であるイエス・キリストのもとにとどまり、イエス・キリストと共に歩み続けることが大切なのです。さらに言えば、このようなキリストがいてくださるからこそ、自分の罪深さにも向き合うことができるのです。

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