聖書を開こう 2021年12月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  偉大な大祭司が与えられているのだから(ヘブライ4:14-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「偉大な人物」と聞くと、近づきがたいものを感じます。その人と同等であるか、それ以上でなければ、気軽に声などかけることもできません。近づきたければ、誰かの紹介か仲介が必要だと感じてしまいます。

 今日取り上げようとしている個所には「偉大な大祭司」という言葉が出てきます。しかし、この偉大な大祭司は、わたしたちを寄せ付けないようなお方ではありません。むしろ、この大祭司がいてくださるおかげで、もっとも偉大なお方である神の恵みの座にすら大胆に近づくことが可能です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章14節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 今日の個所には、再び「大祭司」という言葉が登場します。2章17節ですでにイエス・キリストは「憐れみ深い、忠実な大祭司」として紹介されました。さらに3章1節でも「大祭司」という呼び名でイエス・キリストは紹介されています。きょう取り上げた個所で、大祭司の名でイエス・キリストが紹介されるのは三度目になります。「ヘブライ人への手紙」の中では、この後にも「大祭司」であるイエス・キリストについての教えが続きます。

 もちろん、その場合の「大祭司」は、旧約聖書のアロンに代表される人間の大祭司が、その比較の対象として前提されています。

 2章17節に登場した「憐れみ深い、忠実な大祭司」という表現は、人間の大祭司についてもある程度言い得ることです。歴代すべての人間の大祭司が、キリストと同じように憐れみ深く忠実であったとは言えないとしても、大祭司という職務上、人間の大祭司にも憐れみ深さや忠実さは求められています。

 しかし、きょうの個所で登場する「偉大な大祭司」という表現は、キリストにしかあてはめることはできません。アロンとは比較にならない要素がイエス・キリストにはあります。

 第1に、キリストは「もろもろの天を通過された」お方です。「もろもろの天」という表現はヘブライ的な表現ですが、いく層にも重なる天を通過して天の上に挙げられたお方というイメージがここには表現されています。こういう高くあげられたキリストのイメージは、他の書簡にも出てきます。たとえば、エフェソの信徒への手紙4章10節にはキリストが「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られた」と記されています。そこは正に神の御座のあるところで、キリストは父なる神の右に座しておられます(使徒言行録2:33; コロサイ3:1)。

 しかし、人間の大祭司はそうではありません。年ごとに動物の犠牲の血を携えて至聖所に入りますが、それは一時にすぎません。しかも、神のいます天そのものに入るわけではありません(ヘブライ9:7, 24, 25)。

 第2に、キリストは大祭司として繰り返されることのない完全な犠牲を捧げられました。それは人間の祭司が繰り返し動物の犠牲を捧げるのとは決定的に違います。

 第3に、イエス・キリストは神の子であるという点で、どの大祭司よりもはるかに偉大です。それは人間である大祭司には追随を許さない点です。

 そういう三重の意味で偉大な大祭司が与えられているのですから、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と「ヘブライ人への手紙」の著者は自分を含めて読者たちに呼びかけます。

 しかし、このような偉大なお方には近寄りがたいというイメージが先行するかもしれません。天の遥か彼方にいて、人間からは遠く離れているイメージです。もはや人間の苦しみや労苦とはかけ離れた存在のように感じられるかもしれません。

 けれども、この偉大な大祭司であられるキリストは、決してそうではありません。すでに2章17節で「憐れみ深い大祭司」と紹介されたように、人間に寄り添うことのできるお方です。それは、「すべての点で兄弟たちと同じように」なってくださったからです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:18)。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。

 確かに「罪を犯されなかった」という点では、わたしたち人間とは異なっています。しかし、そのことは罪人に寄り添う上で妨げになるどころか、かえってわたしたちの苦悩の深みまでも知っておられるということなのです。

 例えば、マラソンのほんの500メートル走って脱落した人が、ゴール直前で脱落した人の苦しみに寄り添うことができるでしょうか。マラソンの全工程を走り抜いた人だけが、マラソンのすべての大変さを知っているからこそ、寄り添うことができるのではないでしょうか。

 イエス・キリストはあらゆる試練を通り抜け、罪を犯されなかったからこそ、どんな試練のうちにある人にも寄り添うことができるのです。

 そうであればこそ、次のような言葉で4章は締め括られます。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)。

 偉大な大祭司であり、憐れみ深い大祭司がわたしたちに与えられているからこそ、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。

 前回取り上げた箇所の最後にはこう記されていました。

 「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ4:13)。

 最後の審判の時に、神の御前に立たされる自分の姿を想像すると、それは身震いするような恐れを感じます。

 しかし、わたしたちには偉大な大祭司、憐れみ深い大祭司が与えられているのですから、大胆に神に近づくことが、日々許されています。日々の祈りの中で、日曜日ごとに行われる主の日の礼拝の中で、神に大胆に近づく恵みをイエス・キリストを通して与えられているのです。

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