聖書を開こう 2022年3月10日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストこそ優れた大祭司(ヘブライ7:20-28)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今の時代に生きるわたしたち、特に日本で暮らすわたしたちにとって、祭司の務めと言われてもピンとこないのは無理もないかもしれません。エルサレムにあった神殿で、毎日、祭司によって動物の犠牲が献げられていた時代を直接知っている人はいませんし、旧約聖書を読んだことがなければイメージのしようもありません。

 祭司の努めの重要な役割の一つは、神と人との間を執り成す仲介者の役割であったといえば、少しはイメージしやすいかもしれません。そうした仲介者として、イエス・キリストは最高の大祭司であるというのが、この「ヘブライ人への手紙」の著者が伝えたいことの一つです。

 きょう取り上げる箇所では、三つの点からこのことを論証しています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 7章20節〜28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

 今までこの手紙の中では、アロンの系統の祭司と、旧約聖書に突如現れた祭司王メルキゼデクとの比較が論じられてきました。そのことは言うまでもなく、祭司としてのイエス・キリストが、旧約聖書の律法に定められた祭司にはるかに勝った祭司であることの論証へとつながっていきます。きょうの個所では、キリストの卓越性が三つの点から論じられています。

 まずその一つが、イエス・キリストは神の誓いによって立てられた祭司であるという点です。

 旧約聖書に登場する祭司たちは、律法の規定によって立てられた祭司たちでした。出エジプト記28章1節には「祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」と規定されています。それに続く個所には祭司についての様々な規定が細かく記されています。しかし、その規定のどこにも、この祭司が神の誓いによって立てられた、とは記されていません。

 けれども、詩編110編に記される人物は、誓いによって立てられた「とこしえの祭司、メルキゼデク」と呼ばれています。ちなみにこの詩編は、イエス・キリストご自身によって、来るべきメシアを描いた詩編であると解釈されています(マルコ12:35-37)。この手紙の著者は、詩編110編を引用しながら、メシアであるイエスが、神の誓いによって立てられた祭司であるという点に着目します。

 では、律法の規定によって立てられた祭司よりも、神の誓いによって立てられた祭司の方がどういう意味で卓越しているというのでしょうか。この手紙の著者は誓いの不変性や確実性ということに着目しています。

 人間が誓いを立てるのは、事柄が確実であって、状況によってころころと変わらないことを保証するためです。もし誓いを破れば、相当の重い責任が問われます。

 そうであるとすれば、神の誓いは人間の場合よりもはるかに優って確実です。神が誓いをもって立てた祭司なのですから、変わることのない祭司であることが保証されているということです。

 律法の規定は状況によって変更されることもあり得ますが、誓いが変更されることはありません。誓いが変更できるのであれば、誓う意味がなくなってしまうからです。

 さて、イエス・キリストが旧約の律法の規定によって立てられた祭司に優っている第二の理由は、永遠性という点です。

 確かに律法の規定によって立てられたアロンの系統の祭司たちも、世襲によって代々存続してきました。少なくともアロンの時代からイエス・キリストの時代まで祭司職が途絶えたことはありませんでした。しかし、祭司の勤めを果たした一人一人はというと、死を免れることはできませんでした。初代の大祭司アロンも、永遠に大祭司の務めに就いていたわけではありません。

 それに対して、イエス・キリストの場合は、前回取り上げた7章16節にある通り「朽ちることのない命の力によって立てられた」祭司ですから、十字架の死を経験しながらも、復活の命を与えられて、永遠に祭司の務めを果たすことのできるお方です。その素晴らしさをこの手紙の著者はこう述べます。

 「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ7:25)

 イエス・キリストだけがいついかなる時にもわたしたちを執り成して、完全な救いを与えることができるのです。

 祭司としてのキリストが、旧約時代の規定によって立てられた祭司よりも優れた三番目の点は、イエス・キリストが罪のない完全なお方であったことです。

 旧約聖書の規定によって立てられた祭司は、自分自身、罪から逃れることはできませんでしたから、他の人々のために執り成す前に、自分自身のためにも犠牲の献げものを必要としていました。このことは年に一度の贖罪の日について定めたレビ記16章の規定を読むと明らかです。もちろん、祭司が自分の罪のために犠牲を献げるのは、年に一回だけではありませんでした。祭司が自分のために献げる犠牲の供え物は、贖罪日以外の規定の中にも出てきます(レビ記4:3以下)。それらはその都度必要となる犠牲の供え物の規定です。

 しかし、イエス・キリストの場合はそうではありません。罪のないお方でしたので、自分自身のための動物犠牲を献げる必要はありません。そればかりか、完全でしみも傷もない犠牲として、ご自身をさえ献げることができました。
 このように、変わることがなく、完全な大祭司であられるイエス・キリストをわたしたちは永遠にいただいているのです。だからこそ、神のみ前に大胆に近づく恵みをわたしたちはいただくことができるのです。

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