聖書を開こう 2022年3月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  天の至聖所で仕える大祭司(ヘブライ8:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリスト時代のユダヤ人たちが、キリスト教を危険な教えだと思っていた理由の一つは、エルサレムの神殿に対するキリスト教の独特の立場にありました。そのことはイエス・キリストやパウロを訴える口実として彼らが口にする言葉から明らかです。

 例えば、キリストを訴えようとしたユダヤ人たちは証言者を立ててこう言わせました。

「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」(マルコ14:58)

 あるいはエルサレムの神殿にやってきたパウロに対して、その活動をアジア州で見聞きしたユダヤ人たちはこう述べて群衆を扇動しました。

 「この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。」(使徒21:28)

 キリスト教の立場からすれば、彼らはキリスト教の教えを曲解しているとしか思えません。しかし、ある意味キリスト教の本質に気が付いていると言えるかもしれません。今学んでいる「ヘブライ人ヘの手紙」が論証しているとおり、この地上にある神殿とそこで行われている一連の祭儀は、イエス・キリストによって、もはや不要のものとなりました。完全なものがあらわれたとき、不完全なものはその役目を終えるからです

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 8章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。

 この手紙の著者は、かなりのスペースを割いて祭司王であったメルキゼデクがアロンの系統に属する大祭司よりも優位に立つことを論じてきました。それは、メルキゼデクその人にかかわる議論のためではなく、メルキゼデクと同じようにして立てられた永遠の大祭司イエス・キリストの卓越性を論証することが目的でした。

 あまりにも長々と書いてきましたので、さらに詳しく論じる前に、ここで一旦、要点をまとめています。「今述べていることの要点は」と述べて、言いたいことを整理して読者に伝えています。

 わたしたちのいただいている大祭司イエス・キリストが優れている第一の点は、「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着」いておられるという点です。「神の右に座しておられる」ということは、新約聖書のいろいろな個所で言及されていますが、それは、キリストの王権と深くかかわる表現です。例えば「エフェソの信徒ヘの手紙」1章20節と21節には、あらゆる支配と権威の上に置かれ、神の右に着座されたキリストについて語っています。

 旧約聖書に登場するどのような大祭司も、神の右に着座するような者は一人もいませんでした。アロンの系統に属する祭司には、王的な祭司というイメージは片鱗もありません。それに対して、イエス・キリストは神の右に座しておられる王的な祭司であるという点で、地上の祭司よりもはるかに優れています。

 第二の卓越した点としてあげられるのは、その仕える場所が、天にある真の幕屋であるという点です。これは第一にあげた点からも当然のことと言えます。つまり、神の玉座の右に着いているのですから、地上での祭司の務めとは異なる次元であることは明らかです。

 逆に、もしイエス・キリストがこの地上におられるのであれば、地上の祭司が律法によってその働きをしていたのですから、決して祭司ではありえなかったと、この手紙の著者は述べます。

 さらに天上の幕屋と地上の幕屋の対比は、単に幕屋が存在する場所が天上か地上かという違いによるものではありません。天上にある幕屋が「真の幕屋」と呼ばれるのに対して、地上の幕屋は天にあるものの写しであり、影にすぎないものであると言われます。

 このことに関して、手紙の著者は旧約聖書の「出エジプト記」に記された幕屋を作るようにと神がモーセに命じられた時のことを思い起こさせています。あの時、モーセは神から示された通りに、幕屋を作りました(出エジプト25:9、39:32)。つまり、この手紙の著者によれば、地上の幕屋は天上の幕屋の模写に過ぎないというのです。そういう意味で、大祭司イエス・キリストは写しや影に過ぎない地上の幕屋ではなく、その本体である天上の幕屋、真の幕屋に仕える大祭司なのです。

 写しである幕屋に仕える祭司たちの務めが、供え物やいけにえを献げることにあるとすれば、当然、天上の真の幕屋に仕える大祭司イエス・キリストにも献げるものがあるはずです。ただ、このことについては、9章23節以下で詳しく 論じますので、ここでは軽く触れるだけにとどめています。イエス・キリストが献げる供え物がはるかに優れたものであることは、前回学んだ7章26節でもすでに暗示されていました。つまり、地上の祭司が献げる犠牲が、繰り返されるのに対して、キリストの犠牲は、動物の犠牲ではなく、ご自身を一度だけ献げるものであったということです。これは完全な犠牲であったので、もはや繰り返される必要がないのです。

 最後に、イエス・キリストが地上の大祭司よりも優れている点として挙げられるのは、「更にまさった契約の仲介者になられた」という点です。この点についても来週以降取り上げる個所で詳しく論じられますので、ここでは要点だけが触れられているにすぎません。

 すでに7章22節で「イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」と述べられていました。イエス・キリストはいっそう優れた契約の保証であり、その契約の仲介者でもあります。

 この場合の「いっそう優れた契約」とか「さらにまさった契約」というのは、古い契約に対する新しい契約、つまり旧約と新約の区別がその背景にあります。この大祭司が優れているのは、新しい契約を仲介し、その保証となられたからです。

 そのような優れた大祭司イエス・キリストを、わたしたちは救い主としていただいているのです。

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