聖書を開こう 2022年3月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  地上の聖所(ヘブライ9:1-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 プロテスタント教会の礼拝堂の中はとてもシンプルな作りをしています。それは予算不足でそうなったというわけではありません。どの宗教もそうだと思いますが、礼拝堂はその宗教の礼拝の理念を現しています。礼拝堂の中に何が置かれていて、何が置かれていないか、ということにはとても重要な意味があります。椅子の並べ方にさえも、その教会の礼拝に対する思いを垣間見ることができます。

 きょう取り上げる箇所には旧約聖書に記された幕屋についての説明が記されています。この幕屋は後にエルサレムに建てられる神殿の原型ともいうべき存在です。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民が荒れ野を旅するときに、宿営地に建てられた礼拝の場でした。その設計図は神からモーセに直接示されました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壷、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

 前回学んだ個所では古い契約と新しい契約について学びました。古い契約は新しい契約の出現によって、古びたものとなってしまいました。そのことは古い契約に属する礼拝に関する規定についても同様です。きょうの個所ではそのことが取り上げられます。

 手紙の著者は古い時代の契約に属する幕屋について長々とした説明をします。神殿ではなく、あえて幕屋を取り上げたのは、モーセに与えられた幕屋の設計図こそ、古い契約の礼拝に関する規定の原型だったからです。

 先ほど「長々とした説明」と言いましたが、著者自身が5節で言っているとおり、それでもかいつまんで記しているにすぎません。細かいことまでいちいち語っていたら、それこそ紙が何枚あっても足りません。幕屋とそこで行われる礼拝の規定については、「出エジプト記」の25章以下に詳しく記されていますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

 今日取り上げた個所の前半、つまり1節から5節までは、幕屋の構造とその中に置かれているものについての簡単な説明です。6節以降はそこで行われる祭儀について述べられます。6節以下で述べられている祭儀についても、すべての祭儀が取り上げられているわけではありません。肝心な点は第一の幕屋、つまり聖所でおこなわれる儀式と、第二の幕屋、つまり至聖所で行われる儀式の区別があったということです。そして至聖所に関しては、その手前に幕があって聖所とは隔てられており、大祭司が年に一度だけ幕の向こう側にあった至聖所に入ることができたということです。

 振り返ってみると、1節から5節までに記されていた幕屋の構造やそこに置かれているものの説明が最小限にとどめられているのは、6節以下で説明される祭儀との関連でそのように必要最小限にとどめられたということができると思います。

 さて、幕屋の構造は手前の聖所と奥にあった至聖所から成り立っていたことは、先ほども触れた通りです。手前の聖所では常に礼拝が行われ、朝に夕に当番の祭司たちが礼拝のために出入りしていました。燭台の火を整えたり、机の上に備えのパンを整えるのは祭司たちの仕事でした。2節で燭台や机、備えのパンについて記しているのは、第一の幕屋で行われる祭司たちの務めとの関連から、その主なものを記したにすぎません。

 この聖所に対して、その奥にあった至聖所は、常に出入りできる場所ではありませんでした。また祭司であれば誰でも入ることができた場所でもありませんでした。しかも、聖所と至聖所の間には垂れ幕がかかっていて、この二つの場所は完全に隔てられていました。ただ、大祭司だけが年に一度、贖罪の日に自分自身と民の罪過のために献げる血を携えて入ることが許されていました。

 この贖罪の日の規定に関しては「レビ記」16章にその詳細が記されています。興味のある方はぜひ「レビ記」16章も読んでみてください。この「ヘブライ人への手紙」が至聖所について記すときに、「金の香壇」のことや「契約の箱」のこと、「贖いの座」について言及している理由が理解出来ると思います。それらは、至聖所にただ置かれていた備品ではなく、贖罪日の儀式に深くかかわっているからです。

 では、古い契約に属する幕屋とそこで繰り返し行われる儀式は、どんなことを指し示しているのでしょうか。この手紙の著者は「聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます」と語っています。

 もっとも神に近い象徴として置かれている至聖所が隔ての幕の向こうにあってすべての人に開かれていないことも、また、繰り返し贖罪のための犠牲の血を必要としていることも、そのすべてが、神への道が完全には開かれていないことを物語っているというのです。

 古い契約のもとで定められている礼拝の規定は、一方では人々を神に近づかせるものではありましたが、しかし、同時に、神との隔たりを意識させるものでもありました。贖罪の日の儀式はその典型で、毎年、その日に、神と民とを隔てている罪過を思い起こさせるものでした。

 この手紙の著者はこの幕屋とそのもとで行われていたさまざまな儀式を、「今という時の比喩」だと述べ、「供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができない」と語ります。礼拝が清くされた良心をもって奉げるべきことは、古い契約のもとでも新しい契約のもとでも変わりありません。しかし、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心が自動的に完全になるわけではありません。それが幕屋での礼拝の限界です。幕屋とそこで行われる礼拝が比喩だと言われているのは、比喩には限界があるということです。真理を説明するために何か目に見えるわかりやすいもので真理を例えたとしても、それは真理そのものではありません。限定的な説明でしかないのです。

 キリストが立ててくださった契約のもとでこそ、神に完全に近づく礼拝を奉げることができるのです。

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