聖書を開こう 2022年4月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストによる永遠の贖い(ヘブライ9:11-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 前にもお話したことがありますが、「旧約」の「約」、「新約」の「約」は、「契約」を示す言葉です。一方は過去の古い契約であり、今は新しい契約の時代であると考えるのは、キリスト教会の独特の時代意識です。イエス・キリストによって新しい契約がもたらされ、この契約は単に新しいというばかりではなく、完全な契約でもあると考えます。

 今、学んでいる「ヘブライ人への手紙」の著者は、「あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」(ヘブライ8:7)と述べて、新しい契約が必要であることと、当然新しい契約は完全であることを示唆しています。

 もちろん、新しい契約の時代がやがて到来することは、旧約聖書のエレミヤ書の中にすでに告げられていました(エレミヤ31:31-34)。ですから、その教え自体はキリスト教が生み出した新しい教えではありません。ただ、キリスト教会がユダヤ教から袂を分かつようになったのは、この新しい契約の時代が、イエス・キリストによってもたらされたのだと主張する点です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 9章11節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の”霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 前回取り上げた個所では、古い契約の時代に属する幕屋での礼拝について学びました。特にこの手紙の著者が着目したのは、幕屋の構造でした。幕屋には聖所と至聖所の区別があって、この二つの場所は垂れ幕によって仕切られていました。この幕屋の構造自体が、神との隔たりが今なお完全には取り払われていないことを象徴している、とこの手紙の著者は指摘しました。神と人とを隔てているのは、言うまでもなく人間の罪の問題で、至聖所を隔てている幕は、聖なる神と罪ある人間との間にある隔たりを象徴しています。

 古い契約に属する礼拝では、この聖なる神との隔たりは、年に一度贖罪日になされる儀式によって形式的に取り除かれる体験をするにとどまるだけでした。それも至聖所に入れるのは大祭司だけで、その大祭司も自分自身の罪のために動物の犠牲の血を必要としていました。しかも、その儀式は毎年繰り返され、至聖所の前の垂れ幕がある限り、これらの儀式によっては罪が完全に取り除かれないことを示しています。

 きょう取り上げる箇所は、この古い契約のもとでなされた贖罪の儀式と、新しい契約のもとで大祭司あるキリストが成し遂げてくださった贖罪の御業が対比されます。

 キリストが新しい契約のもとでの大祭司であることは、この手紙の中ですでに学んできたことでした。古い時代の契約に属するアロンの系列に属する大祭司ではなく、祭司王メルキゼデクに似た永遠の大祭司であり王であるお方として、イエス・キリストは紹介されてきました。

 この大祭司、新しい契約の時代の大祭司であるキリストは、古い契約の時代のように地上の幕屋に仕えるお方ではありません。この大祭司が職務を果たされるのは、「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋」です。

 古い時代に建てられた幕屋は、この完全な幕屋の写しであり、本体に対する影のような存在ですから、新しい契約の大祭司が古い幕屋に仕えないのは当然です。

 完全な幕屋でキリストが果たされたのは、ご自身の血による永遠の贖いでした。古い契約のもとでは、やがて成し遂げられる完全な罪の贖いを模した、動物の血を用いた儀式がなされるにすぎませんでした。しかし、キリストは人間の大祭司とは違ってご自身罪のないお方でしたから、ご自身を罪の贖いの犠牲として献げることができました。しかも、「永遠の贖いを成し遂げられた」と言われているように、それは、古い契約の時代のように不完全さのために繰り返されなければならないような贖いではありませんでした。ただ一度献げられたキリストご自身の犠牲は完全であるが故に永遠の贖いとなりえたのです。

 古い時代の契約のもとでの礼拝と、新しい契約のもとでの礼拝の決定的な違いは、このキリストによって成し遂げられた贖いがもたらす結果からくるものです。それは「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」する点にあります。

 古い契約のもとでなされていた贖罪の儀式も、目指すところは、神との親しい交わりに人間を回復することにありました。しかし、模写にすぎないその儀式では、人間の内面までも清めることはできません。あくまでも形式的な清さでしかありませんでした。

 この手紙の著者は「雄山羊と若い雄牛の血」のことに加えて、「雌牛の灰」のことにも言及しています。この「雌牛の灰」とは民数記19章に記されている「まだ軛を負ったことがない赤い雌牛」の犠牲にかかわる規定です。この赤い雌牛の犠牲は焼き尽くされて、その灰が集められました。そして、それは「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存」されました。そのような古い契約に属する儀式に規定された雌牛の灰でさえ、儀式的にとはいえ、身を清めるのであれば、キリストの血がその人の内面までも清めないはずはありません。

 イエス・キリストは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:23)とおっしゃいましたが、まさにキリストの贖いの御業によって、その時が到来したのです。新しい契約のもとではキリストの永遠の贖いによって、心の奥底までも清められて、いつでも大胆に神の御前に近づくことができるようになりました。

 もちろん、キリストの血によって清めらるとは言うものの、キリストを信じる者たちの中に罪が残り火のようにくすぶっている事実を否定することはできません。この手紙の著者が言おうとしているポイントは、その残り火のようなくすぶる罪でさえ、キリストの完全な一回限りの贖いの業によってすでに赦され、聖なる神のみ前に近づく恵みを現にいただいているということです。

 この手紙の著者はすでに4章でこう述べました。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)

 そう確信できるのは、キリストがわたしたちの罪の問題を十字架の上で完全に解決してくださっているからです。

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