聖書を開こう 2022年4月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  影と実体(ヘブライ10:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供のころ、影踏み遊びをした経験がある人は多いと思います。「影踏み鬼」という名前でも知られている遊びです。いくつかルールがあるようですが、影を踏まれないように逃げ回る遊びです。

 影というのは、踏まれても痛くはありませんから、踏まれたか踏まれないかは目で見ていないとわかりません。影とはそういうものです。本人そのものではないので影を踏もうが叩こうが本人には何の影響もありません。太陽が大きなものにさえぎられて影が消えても、本人までもが消えてしまうものでもありません。

 この手紙では古い時代の制度と新しい契約のもとでの制度を、影と実体になぞらえて説明しています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 きょう取り上げる箇所には、古い契約のもとで存在した律法、特に贖罪日にかかわる律法と制度を「影」に例えています。「影」という言葉は、すでにこの手紙の著者が古い制度を説明するときに使ってきた言葉で、ここに初めて登場する概念ではありません。

 8章5節で、荒れ野で与えられた幕屋を指してこう述べています。

 「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。」

 この手紙の著者は幕屋とそこで行われるもろもろの祭儀を「影や写し」と呼んでいますが、この後特に「写し」という表現を使いながら、本物と写しに過ぎないものとの区別を語ってきました。9章23節と24節では「天にあるものの写し」「まことのものの写しにすぎない」などの表現が使われています(9:23と24で使われているギリシア語の単語は違っていますが、翻訳上は同じ単語を使って、あえて訳し分けてはいません。)。

 きょう取り上げた個所では、「写し」という表現ではなく、「影」という表現が再び使われています。

 一般的に「影」という言葉にはいろいろな意味があるように思います。例えば、影は平面上に投影されるものですから、影を作り出しているものをおぼろげに伝えることはできても、詳細までも描くことはできません。例えば、両手を広げて立った人間の影から、その人が前を向いているのか後ろを向いて立っているのか判断することはできません。また、着ている服にボタンがあるのか、ファスナーがあるのか、影からは判断できません。実体をおぼろげにしか表現できないというのが影の特徴です。

 しかし、そうではあっても、人の影が地面を這うように近づいてくるのを見たら、近づいてくる人本人が見えなくても、やがて人が姿を現すのを察知することができます。影にはそういう働きもあります。

 きょう取り上げた個所では、「やがて来る良いことの影」という表現が使われています。影をみるとき、何かが到来することを察知することができる影の役割です。そういう意味では、古い契約のもとでの制度や律法は意味のないものではありませんでした。やがて来ることになっている良いものを指し示している影だと知れば、期待も一層膨らみます。

 しかし、影はあくまでも影にすぎませんから、影そのものから多くを期待することはできません。影そのものに満足するのではなく、その影を造り出している実体の方にこそ目を向けるべきです。そういう意味で、この手紙の著者は古い契約のもとでの律法を、「やがて来る良いことの影」と表現しつつ、そこにはそのものの実体はないと断言しています。

 この場合、特に著者の念頭にあるのは贖罪日に関する定めのことです。贖罪日の定めは、やがて実現する完全な贖罪を指し示しながら、しかし、それ自体は罪そのものを解決し、神に近づく者たちを完全にするわけではありません。

 もし贖罪日の定めが人を完全にするのであれば、贖罪日そのものの必要性がなくなってしまうはずです。しかし、キリストが贖いの御業をなしとげるまで、つまり、古い契約のもとでは依然として贖罪日のいけにえが献げ続けられてきました。また実際、罪の自覚がなくなるどころか、贖罪日の犠牲を献げるたびに犯した罪の記憶がよみがえってきてしまうのだと、この手紙の著者は主張します。

 影や写しにすぎない制度の下では、それが何度繰り返されたとしても、罪を取り除くことはできない不完全さを持っています。従って神に近づくことができない不安を常に持つしかありません。また、その不安を取り除くために繰り返される儀式に頼らざるを得ないのです。

 しかし、動物の犠牲そのものに意味があるのではなく、それは不完全な身代わりにすぎないものであることは、旧約の民自身が知っていました。それを献げる者自身の心が悔いた砕けた心をもって神に聞き従おうとしているかが問題です。

 詩編51編には、こう記されています。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18-19)

 また、預言者イザヤは、心の伴わない、ただの繰り返しに過ぎない捧げものを批判してこう言いました。

 「お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。 雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。 雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」(イザヤ1:11)

 では、新しい契約のもとに生きるクリスチャンたちは二度と罪を犯さないほどすでに完全なものとされているのか、というと必ずしもそうではありません。誤解のないように言いますが、この手紙の著者が問題としているのは、キリストの贖いの完全性ということが第一にあり、そこから引き出される結論として、私たちの良心の平安があるのです。

 キリストの贖いの犠牲が完全であるという意味は、繰り返される犠牲を必要とせず、キリストを通していつでも神に近づき、神を礼拝する道が開かれているということです。そこには完全な罪の赦しがあるということです。そうであるからこそ、キリストにより頼む者は、安心して罪を告白し、神に受け入れられていることを確信することができるのです。完全な赦しがあるからこそ、神に聴き従う心が与えられるのです。そういう意味でわたしたちはキリストにあって完全なものとされているのです。

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