聖書を開こう 2022年8月25日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  しっかりと歩もう(ヘブライ12:12-17)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たちは肉眼で神を見ることはできません。それは、神が肉体を持たない霊的なお方であるというのがその理由の一つです。もう一つの理由は、神があまりにも清く、栄光の輝きに満ちたお方であるので、直視することができないからです。

 しかし、イエス・キリストはおっしゃいました。

 「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ5:8)

 もちろん、ここでいう「神を見る」というのは、肉眼で見ることができるという意味ではないでしょう。ただ、どういう仕方で見るにせよ、「心の清さ」を抜きにして、神に近づくことも、神を見ることもできないことは明白です。罪のある者は神に近づくことも、神にまみえることもできないからです。ただ、旧約聖書の時代には神が特別にお許しになった者だけが、神に近づくことができました。

 新約聖書の時代には、神の子イエス・キリストの救いの御業によって、信じる者にはその罪が赦され、聖なる者とされ、神の恵みの座に大胆に近づくことが許されるようになりました(ヘブライ4:14-16、10:10)。この恵みにあずかっているのが、この「ヘブライ人への手紙」の読者たちであり、私たちイエス・キリストを信じる者たちです。

 きょうこれから取り上げようとしている個所にも、「主を見る」ということと「清さ」の問題が出てきます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 前回学んだ個所では、信仰者が地上の生活の中で直面する様々な苦難、とりわけ敵対する者たちから受ける迫害にも、意味があるということを学びました。それは、父である神が信じる者たちを自分の子供として扱い、成長のために訓練しておられるということでした。

 確かに訓練や鍛錬は、いつも心地良いものではありません。特にその目的や意味が分からない時にはなおさらそう感じられるでしょう。ですから、苦しみの中にあってくじけそうな信仰者たちを励ますために、この手紙の著者は、その苦しみの意味を父である神からの訓練として受け止めるようにと勧めました。

 きょうの個所ではそのことを受けて、信仰にしっかりと歩むようにと勧めがなされています。

 「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」

 この勧めの言葉に出てくる「萎えた手」「弱くなったひざ」「足の不自由な人」という表現は、前後関係の文脈から判断して、文字通りの意味ではありません。信仰のゆえに受ける苦難や迫害の意味を受け取り切れず、信仰的に弱っている人たちのことです。

 苦しみの意味が分かった今、信仰に立ってしっかりと生活を送るようにというのが、この手紙の著者の言いたいことです。

 また、「萎えた手」「弱くなったひざ」という表現は、イザヤ書35章3節以下で、栄光の回復の時と関連付けて語られる言葉です。

 「弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。 『雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。』」(イザヤ35:3-4)

 この預言者イザヤの言葉を念頭に、この手紙の著者は救いの完成を目指して歩む信仰者たちを励ましています。

 このしっかりした信仰の歩みということに関して、特にこの手紙の著者が念頭に置いて語っているのは、二つの事柄です。一つは、「すべての人との平和を追い求める」ということです。まずは、信仰者の共同体の中で平和は求められるべき大切な事柄です。言い争うことから、健全な信仰の共同体は生まれません。さらに、イエス・キリストの教えによれば、平和を追い求めるのは、共同体内部だけの平和ではなく、敵をも迫害する者をも含めた者たちと平和です(マタイ5:44)。悪に対して復讐することだけが優先されるのではなく、和解と平和の道を求めることが求められています。

 しっかりとした信仰生活を送るために追い求めるべき第二のことは、「聖なる生活」です。確かにこの手紙の中では、信じる者たちがイエス・キリストの血潮によって清められたことが既に語られています(ヘブル10:10)。ここで語られているのは、その上で神が清くあられるように、その清さにまで至るような清さの追求です。それは聖霊の力に助けられながら全生涯を通して求めるべき清さです。何もしなくても自然と与えられるような清さでは決してありません。清い生活は聖霊の助けに謙虚に信頼して歩み続ける者に与えられる恵みです。このように生きることをこの手紙の著者は願っています。何よりも、清さなくして神を見ることはできないからです。

 この手紙の著者は積極的に追い求めるべきものを語った後で、今度は気を付けるべき事柄についても語ってます。それは「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように」という注意です。この注意は、単に個人に向けられているというよりは、信仰の共同体に対して語られている言葉です。共同体の中で互いに励ましあい、戒めあいながら、神の恵みから離れていってしまう者がないように、また信仰的な腐敗が全体に広がらないようにと注意を呼びかけています。この手紙の著者が「しっかりとした信仰的な歩み」について考えるとき、それを共同体全体の問題として捉えていることは、注目すべき点です。

 最後に、創世記に登場するエサウの生き方を反面教師として掲げ、みだらな者や俗悪な者とならないようにと注意が促されます。この場合、エサウがどういう意味でみだらな者と呼ばれるのかは、説明が難しいところです。ただ、エサウが優先させるべきもの、大事にすべきものを取り違えて、目先の利益を求めてしまったことは、反面教師として学ぶべき点です。大事にすべきものを取り違えて、俗悪なものとなるなら、それこそ取り返しのつかないことです。

 そうならないように、苦しみの中にあっても、約束された救いの完成に希望を見出し、しっかりとした信仰の歩みを続けること、このことをこの手紙の著者は願っているのです。

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