聖書を開こう 2022年10月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  手紙を結ぶにあたって(ヘブライ13:20-24)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうで「ヘブライ人への手紙」の学びも最後となりました。およそ一年間近くかけて少しずつ学んできましたが、現代を生きる私たちにはピンとこない個所もあったことと思います。その当時のヘブライ人キリスト者へ宛てた手紙ですから、私たちには分かりにくい個所があったとしても、それはしかたがないかもしれません。いずれにしても、本書があったおかげで、旧約の時代に属する事柄が、イエス・キリストとどう結びつき、どう凌駕されたのか、明瞭に示されたと思います。

 今日取り上げるのは、手紙の最後の部分、結びの部分です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章20節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがた一同と共にあるように。

 この手紙の著者は、手紙を結ぶにあたって読者たちのために祈りを献げています。この祈りは「平和の神」という言葉で始まります。神を「平和の神」と呼ぶことは、新約聖書の中で珍しいことではありません。パウロもその手紙の中で4回、神を「平和の神」と呼んでいます(1コリント14:33, 2コリント13:11, フィリピ4:9, 1テサロニケ5:13)。

 神に対する呼び方は、新約聖書の中でも様々な呼び方がなされていますが、ここで神を「平和の神」と表現したことに、何か著者の特別な思いが反映されているのでしょうか。例えば、コリントの信徒への手紙一の14章33節でパウロが神を「無秩序の神ではなく平和の神」と呼んでいるのには、コリント教会の中にあった信徒同士の対立がその背景にあることは明らかです。もしかしたら、この手紙の受取人たちの間にもそのような対立的な何かがあったのかもしれません。例えば、旧約時代の制度に関する理解の違いが、教会の中で不和をもたらすような問題になっていたということは十分に考えられます。また、そうであるからこそ、古い契約と新しい契約の意味をこの著者は明らかに語ってきたとも言えます。

 もっとも、フィリピの信徒への手紙やテサロニケの信徒への手紙の中で、「平和の神」という表現が使われているのは、必ずしも群れの中に不和が生じていたことと強く結びついているようには思えません。この個所でも、群れの中の不和や対立が必ずしもあったとは言えないかもしれません。

 著者が献げるこの祈りは、一つの願いに集中しています。それは御心を行うために、神が良いものを読者たちに備えてくださるように、という願いです。

 その願いを述べる前に、この手紙の著者は、神についての説明をイエス・キリストとの関係の中で短く述べています。

 この平和の神は、主イエスを死者の中から引き上げられたお方である、と説明が加えられます。このキリストの復活に対する信仰の告白は、新約聖書の中で繰り返し述べられていることですが、この「ヘブライ人への手紙」の中では、キリストの復活について直接言及するのは、この個所が初めてです。もちろん、この手紙の著者はキリストの死について何度も述べてきましたし、キリストが神の右の座に着座されたことを述べていますので、そこには復活信仰が前提にあることは言うまでもありません。

 ただ、ここではキリストの復活と神との関係を、言い慣わされてきた信仰告白の言葉をそのまま使うことをしていません、死者の中から引き上げられたキリストを「わたしたちの主イエス」と呼ぶ前に「羊の牧者」と呼んでいます。さらに、その「牧者」を「大いなるもの」と呼び、その大いなる理由を「永遠の契約の血による」ものであると説明します。そして、最後にこの大牧者を「わたちたちの主イエス」であると言い換えています。

 「永遠の契約の血」を持ち出す説明の加え方は、ヘブライ人への手紙の著者らしい表現であるといえるかもしれません。ただ、この手紙の中では一度も使われなかった「牧者」という言葉が、ここで初めて登場する理由は何なのでしょうか、この手紙の著者は「大牧者」という表現よりも「大祭司」と言う表現を好んでイエス・キリストに対して用いてきました。そういう意味では「大牧者」という表現が用いられるのには唐突な印象を受けるかもしれません。

 「ヘブライ人への手紙」に登場する大祭司イエスは、ご自分を犠牲として献げる大祭司でしたから、羊のために自分の命を献げる良き羊飼いのイメージ(ヨハネ10:11)が著者の頭の中では自然にリンクしていたとしてもおかしくはありません。

 この手紙の著者にとって、祈りを献げる「平和の神」であるお方は、ご自分の命を献げた大牧者である主イエスを、死者の中から引き上げられた、そういうお方として認識されているのです。旧約の民にとって、神はその民をエジプトから救い出してくださったお方としてしばしば述べられていますが、新しい契約の民にとって、神はイエス・キリストを死者の中から引き上げられ、このよみがえられたキリストを通して、永遠の命を私たちにも保証してくださるお方なのです。そういう偉大な力を持っておられるお方に向かってこの手紙の著者は祈っているのです。

 祈りの中で述べられる願いは、先ほども触れた通り、「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」という一点に集中しています。

 わたちたちは、欠けたところの多いものです。お世辞にも完全だとは言えません。そのことのために人をつまずかせてしまうことも多々あります。この祈りには、そうした私たちの弱さが前提にあります。そして、その弱さを決して覆い隠そうとはしません。そうかといって、その足りなさを指摘して、非難するのでもありません。むしろ、神のみ前に足りなさを認め、その足りないところを満たして欲しいと願う建徳的な祈りです。

 教会が一致して成長していくためには、足りないことをお互いに指摘しあうだけでは、十分ではありません。まして、そのことがお互いを非難しあう機会となってはなりません。この手紙の著者がしているように、欠けたところを神に満たしていただくように、一人一人のために祈ることが大切です。神の御心に従って生きることができるように、あらゆる面での不足を満たしていただく必要があるからです。

 こう祈る手紙の著者には、神に対する確信がありました。それは、神が私たちに対して、いつもイエス・キリストによって、ご自分のよしとすることをなしてくださっているからです。御心のよしとすることをなしてくださる神であるから、御心に生きようとする私たちをも、それにふさわしく整えてくださるのです。

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