聖書を開こう 2023年1月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  目標を目指してひたすら走る(フィリピ3:12-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 あるアメリカ人の牧師が、フィリピの信徒への手紙を解説しながら、こう語っていたのを印象深く覚えています。それは、この手紙の中では「クリスチャン」の姿が、「途上にある者」の姿として描かれていると言うことでした。そもそも新約聖書が指し示すクリスチャンの姿は、「完成された者」なのではなく、「完成へと向かう途上にあるクリスチャン」なのだということなのです。

 しばしば、洗礼はゴールではなくスタートであると言われますが、洗礼を受けてクリスチャンとなったと言うことは、まさに、完成というゴールに向かってスタートを切ったということに他なりません。そして、一人一人が完成に向かう道の途上にある者として、自分を自覚することの大切さを改めて覚えさせられました。

 かつて先進国の人たちは、発展の送れている国を「後進国」と呼んで蔑んできましたが、いつのころからか「後進国」ではなく「発展途上国」と呼ぶようになりました。その「発展途上国」も、今ではかなり発展した国になりました。その「発展途上国」という言葉に倣って「クリスチャン」を呼ぶとしたら、クリスチャンは「発展途上人」ということができるかもしれません。それは決して軽蔑の意味からではありません。目標へと向かって確実に進歩を遂げる人という意味で、クリスチャンは完成に至るまで発展途上にある人であり続けて欲しいと思います。

 きょうこれから取り上げようとしている個所では、この「途上にある者」としてのクリスチャンの姿が鮮明に語られています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 3章は福音の敵対者を念頭にパウロがフィリピの教会員たちに注意を呼びかけている個所です。先ほどお読みしました個所も、そのことを念頭に理解する必要があります。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」

 この文章は実はとても不完全な文章です。パウロは何を得ていないのかという目的語をまったく語っていません。ギリシャ語の原文では「それを」と言う言葉を語らないで、ただ単に「わたしは既に得たというわけではない」と語っています。文章としてはちょっと不完全な文章です。しかし、それに続く文章…「既に完全な者となっているわけでもありません」という言葉とあわせて考えると、パウロがここでイメージしているのは、何かを得て宗教的な完成へと達するようなそんなクリスチャンのイメージです。ただ問題は、パウロがなぜここで「得ていない」とか「まだ完全な者ではない」などとしつこく語っているのかということです。

 おそらく、パウロがここで「得る」とか「完全な者」という用語を使っているのは、福音の敵対者たちが使っている用語と関連しているのでしょう。彼らは、自分たちだけが絶対的なものを得て、宗教的に完全な者になっていると考えていたのに違いありません。そして、そういう完成された姿を誇りに思い、このように完全になるべきことをフィリピの教会員たちにも求めていたのでしょう。確かに、そのような主張はもっともらしく聞こえます。また、何かを得て完全になれるものなら、なってみたいという思いにもなるかもしれません。

 しかし、この地上でそんなにも簡単に完全になれると思うところに落とし穴があるのです。結局のところ、それはキリストにある救いを無にしてしまう危険性があるとパウロは気がついていました。なぜなら、福音の敵対者たちが描いている完全さに至るためには、何かを得ることが重要だからです。「既にもう得た」と感じる何かがなければならないのです。それは結局、キリストの恵みにプラスアルファされる何かなのです。そういう安易なプラスアルファを求めて救いの完成を目指すとすれば、それは結局キリストがもたらした恵みとは無関係な救いになってしまうからです。

 パウロはむしろキリストにある救いを、一つのレースのように捉えています。そして、一人一人のクリスチャンはこの競走に参加する競技者なのです。しかも、レースを走り出したものの、まだゴールには至っていない、途上にある競技者なのです。この場合、競技者に求められていることは、走路を抜け道してゴールに達することではありません。パウロにとって、「自分がもう既に得た」とか「完全な者になっている」などと考えることは、安易な抜け道を通ってゴールに到着したに過ぎないのです。それはルール違反であり、ほんとうにゴールに達したのではありません。従って賞を得たことにもなりません。

 パウロはこのレースの参加者として「何とかして捕らえようと努めている」そういう自分の姿を描きます。しかし、この「捕らえようと努めている」自分の姿を、パウロは「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」とも表現しています。このレースは自分で一所懸命走っていると思える反面、しかし、実際にはキリストがわたしたちを捕らえてくださっているレースなのです。この「キリストに捕らえていただいている」と言う意識が、福音の敵対者たちが抱いている救いの意識とは異なる点です。キリスト以外のバイパスを求めて完成される救いなのではなく、まさに共にいてくださるキリストに捕らえられながらレースを最後まで走りぬいて手に入れる救いの完成なのです。キリストが捕らえてくださっているからこそこそ、パウロの言う通り、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて、最後まで走りぬくことができるのです。

 確かに、わたしたちの側でもしっかりとキリストを捕まえています。しかし、その手は時々、キリストから離れてしまうことがあるかもしれません。けれども、キリストはわたしたちをしっかりと捕らえてくださっているので、最後まで脱落することなく走りぬことが出きるのです。

 「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」とパウロはこの段落を結びます。どんなマラソンでもそうですが、一気にゴールに到達することは出来ません。また、そんなことを願ってもいけません。完成に向かう途上にあるクリスチャンとして、それぞれが今到達したところに従って走りつづけることが大切なのです。

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