月刊誌リジョイス 聖書日課 2009年4月27日(月)

エゼキエル9章 第二の過越

主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。」(エゼキエル9:4-6)

 エルサレムでなされていた「忌まわしい」罪の行為に対する主の裁きが、エゼキエルの前で行われます。それは、舞台上で繰り広げられるドラマのように展開されます。エルサレムは偶像崇拝と流血と不正に満ち、今や徹底的な罰しか残されていません。主は、六人の天使に命じてこれを実行されます。

 しかし、この都にも主を畏れる人々がいました。彼らは、「あらゆる忌まわしいことのゆえに嘆き悲しんでいる」人々でした。彼らは、その額に印をつけられ、刑罰の死を免れることとなりました。印によって救われるとは、出エジプト記12章の「過越」の物語とよく似ています。そして、黙示録14章1節の「その額には小羊の名…を記されていた」14万4千人についての預言へと橋渡ししています。

 興味深いことに、ここで「印」と訳されているヘブライ語「タウ」はアルファベットの最後の文字です。その古い形はX(ギリシア語でキリストを表す最初の文字)でした。「過越」は最終的には、神の小羊、イエス・キリストによって実現するのです。小羊をほめたたえよ。

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