月刊誌リジョイス 聖書日課 2011年1月19日(水)

イザヤ8章 わたしは主を待ち望む

わたしは弟子たちと共に
証しの書を守り、教えを封じておこう。
わたしは主を待ち望む。
主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが
なおわたしは、彼に望みをかける。(イザヤ8:16-17)

 神への信頼に生きることを潔しとしないユダの王と民衆に、預言者は語り続けます。その道の、何と険しく何と狭いことでしょうか。聞かれない言葉を語る、預言者の孤独と苦難を鋭く表現しているのが、17節後半です。

 神が、み顔を隠される。救いの喜びをも奪う信仰の暗い夜が襲います。そのなかで、預言者は、教えの御言葉を、弟子たちと共に封じておこうと決意します。御言葉を封じる。それは、預言者としての苦渋の決断です。しかし、この決断に、「わたしは主を待ち望む」という、決然とした信仰の告白が添えて語られています。御言葉は、今は封じられても、必ず将来に封を切られる日が来て、再び理解される日が来ると信じたのです。

 主は来てくださいました。教えの封は開かれています。今や、神の御顔は向けられています。御言葉の励ましにより、キリスト者は、既に捕らえたとは考えず、さらになお完成を待ち望みます。悩みと嘆きが募るときも、主を待ち望む明るい告白を携えて進みましょう。

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