月刊誌リジョイス 聖書日課 2011年4月7日(木)

1コリント15章 復活の希望を奪う刹那的楽しみ

単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。(1コリント15:32)

 クリスチャンになれば、もうどのような災いにも遭わない、と考える人は、今日の教会にはいないと思います。しかし、コリント教会に、この点での誤解がはびこっていました。良くない目に遭うのは、信仰が足りないからだ、と見なす傾向があったようです。信仰者ならば、もうキリストと共に復活したのだから、苦しみを味わうことはないのだ、と。

 この教会に、パウロは訴えます。キリストの愛を受けているなら、キリストの苦しみにも与るのが信仰の本分ではないか、と。信仰ゆえの苦しみを担うことがなければ、キリストの恵みの半分も知らないのではないか、と。

 パウロは、復活の希望があるからこそ、「エフェソで野獣と闘った」、と証しします。苦しみに立ち向かう力は、復活の希望にあります。すぐに消える刹那的な楽しみを追求する人生は、復活の希望に生きる人生の正反対です。キリストゆえの「死」は、復活への序章に過ぎません。この恵みを苦難のなかで思い巡らしましょう。

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