月刊誌リジョイス 聖書日課 2013年5月6日(月)

エゼキエル15章 焼かれて焦げたぶどうの木

「(ぶどうの木は)完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。…わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。…わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼキエル15:5-7)

 イスラエルは実を結ばないぶどうの木に例えられました。「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか」とあります(エレ2章21節、新改訳)。

 エゼキエル書15章ではこのときすでに、ヨヤキン王と共に、多くの民がバビロンに連行されていたのです(1章)。イスラエルは部分的に「焼かれて焦げてしまった」ぶどうの木でした(5節)。それでもなお、彼らは神に背き続け、数年後、エルサレムはついに焼き尽くされます。

 イスラエルは神に懲らしめられるのですが、しかし、そのなかで、神がみ顔を向けてくださり、イスラエルは神と改めて向かい合います。そのとき、彼らは主なる神を知るようになるのです(7節)。

 私たちのために懲らしめを受けてくださった主イエスが「わたしはまことのぶどうの木」、「あなたがたはその枝である」(ヨハ15章)とおっしゃいました。十字架の主につながっていればこそ、試練の中にあっても、私たちは実を結ぶことができるのです。

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