月刊誌リジョイス 聖書日課 2014年11月24日(月)

哀歌1章 この痛みほどの

道行く人よ、心して
目を留めよ、よく見よ。
これほどの痛みがあったろうか。
わたしを責めるこの痛み
主がついに怒ってわたしを懲らす
この痛みほどの。(哀歌1:12)

 ここには悩みがあり、苦しみがあります。慰めとなり、助けとなるものは何ひとつ見出すことができません。これと似た悲惨さを、私たちも知っていることでしょう。それはみな神の御前に注ぎ出すことができます。そして、いつまでも惨めさのうちに沈み込むのではなく、私たちはそれを乗り越えていくことができるのです。

 そのためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、哀歌の詩人と同じく、自分の罪と背きを、すべて神に告白することです。また「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1ヨハ1章9節)と言われています。

 この罪の赦しのために、主イエス・キリストは私たちの身代わりとなられ贖いを成し遂げてくださいました。それは、「これほどの痛みがあったろうか。…この痛みほどの」と言われるまでの激しい痛みと共にある貴い贖いでした。ここに救いの確かさがあります。ですから、主イエス・キリストにあって、私たちの希望は決して揺らぐことがありません。

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