月刊誌リジョイス 聖書日課 2015年4月7日(火)

イザヤ17章 救い主である神を忘れない

その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。(イザヤ17:7-8)

 17章は「ダマスコについての託宣」として始まります。ただ、これは6節までで、7節からは偶像礼拝についての厳しい裁きが語られます。しかも、10節で「お前」と出てきますが、イザヤは北イスラエルに向かってこのようには言いません。これは南ユダに向かって呼びかける言葉です。ですから、ここは偶像礼拝の恐ろしさをユダに向かって警告する内容になっています。

 造り主を仰ぐことは、人間の最も基本的な態度です。神を神として仰ぎ、その神に造られた人として歩むことこそが人として自然な態度であるはずです。にもかかわらず、この最も自然なことをあえて離れ、人は自分の手で造った偶像によって自分を救ってもらおうとしてしまいます。しかし、この神々はその日、主なる神の裁きの日には何の役にもたちません。

 主なる神は、砦、岩となる救い主なるお方です。今ではその神が肉を取られ、救い主イエス・キリストとしてこの世に来られました。この神を忘れ、土着の思想に染まるとは、何と恐ろしいことかをイザヤのメッセージは語っています。これは見事に現代的な課題として迫ってくるものです。

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