月刊誌リジョイス 聖書日課 2018年2月10日(土)

マルコ16章 主をどこで見いだすか

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(マルコ16:6)

 復活の朝、女性たちは主の亡骸を手厚く葬るために墓に向かいました。彼女たちは主イエスを愛し、慕っていればこそ身の危険を顧みずに墓に向かいました。しかし彼女たちが捜し求めたのは主の遺体であり、死んだ主イエスでした。彼女たちの気がかりは、主イエスの墓をふさいでいた石に向かいました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3節)。そこでは希望が過去となっています。まさに死んだ希望です。その彼女たちに告げられます。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。

 私たちもそれぞれに主イエスを愛し、主を求めます。ところがなかなか主にお会いできず途方に暮れます。一生懸命捜し求めますが主イエスに出会うことができない。それは捜し求める場所が間違っているからです。生きている方を墓の中で見いだそうとするように、自分の小さな信仰の中で主を捜し求めるからです。

 まさにそこで言われるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と(ルカ24章5、6節)。

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