ウエストミンスター小教理問答の学び 第45〜48問

第45〜48問 第一戒

問45: 第一戒は、どれですか。
答:   第一戒はこれです。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。

問46: 第一戒では、何が求められていますか。
答:   第一戒が私たちに求めている事は、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光をあらわすことです。

問47: 第一戒では、何が禁じられていますか。
答:   第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。

問48: 第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉で、わたしたちは特に何を教えられていますか。
答:   第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉が私たちに教える事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。


具体的指針である十戒


 問44〜81の十戒解説はすべて、その戒めが求めていることと禁じていることとの両面について、該当する事柄を具体的に並べ上げる仕方で解説されています。それは十戒が理念的な人生論を教えるのではないことを指し示しています。十戒は私たちの生活に密着して、私たちの思いと言葉と行いの一つ一つを神に献げるように求めているのです。

唯一神信仰


 第一戒は唯一神信仰に関する戒めです。それには次の事が含まれます。
(1) 「神を、唯一のまことの神、また、私たちの神として知り、認めること」: 神を唯一の方とするだけではなく、自分が頼り仕える唯一の方(私たちの神)とする事が求められます。

(2) 「神のみを礼拝すること」: 一切の偶像礼拝や、他の神々を礼拝することが禁じられます。

(3) 神にふさわしい栄光を神にのみ帰すること:神が造られたすべてはよいものですが、神と同列のすばらしさはありません。自分・他人・富など神以外のものに、神にのみふさわしいような行き過ぎた信頼、愛、尊敬等を向けるべきではありません。

第一戒の差し出す恵み


 神が唯一であることは客観的事実ですが、この事実を受け入れ、この方をわが神とするとき、私たちの人生は根底から変えられます。
 律法は「魂を生き返らせ」ます(詩編19:8)。十戒はみな、恵みの生への招きでもあります。第一戒は特に深い恵みに人を招いています。
(1) 唯一の神のみを拝して生きるとき、私たちは人生の空しさから自由にされます。人は細切れの人生を生きる時に空しさを味わいます。勉強・労働・育児など、その時々の激しい務めに明け暮れるだけでは、人生は細切れであり、やがては空しさを味わうほかありません。人生のどの場面でも唯一の神を拝し、やがて死の時にもこの方を見上げることのできる人が、人生を終りまで意味あるものとして歩めるのです。

(2) 唯一の神のみに頼るとき、私たちは不安から自由にされます。富や健康や地位や人間など様々なものに信頼を置き、それなしには生きられないと思い込む時、私たちの人生は混乱し、不安の中に投げ出されるものです。多くのものを恐れ、多くのものに頼る多神教的生き方を離れ、全能の御力と限りない愛とを備えておられる唯一の創造者・唯一の救済者なる神を信じる時に、真の平安の中を生きることができるのです。

神の面前を生きる


 問48は「わたしのほかに」という言葉の解説です。この言葉は、「私の面前で」とも翻訳できます。小教理問答はこの翻訳に立ち、他神礼拝を、神の眼前で霊的姦淫を行なう非道の罪である、と戒めています。
 翻訳の当否については異論もあるでしょうが、教えられている内容自体は聖書の教えに合致する大切な事柄です。唯一の見えざる神は、私たちがどこにいる時にも、その場所におられ、私たちを見ておられます(詩編139編)。私たちのすべての歩みは神の面前で行われています。その神は限りない赦しの方でありつつ、善を喜び悪を憎まれます。このことを自覚して歩む時、私たちは深い平安を与えられると同時に、皮相な生き方を乗り越えて真実に生きる者へと変えられ続けるのです。

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