リジョイス聖書日課 2018年2月

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2018年2月の聖書日課

イザヤ 11-12章

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。 イザヤ書 11章1節~2節

切り株から生まれる若枝

1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」とあります。「エッサイ」はダビデ王の父親です。「株」とは切り株のことであり、主なる神の裁きがイスラエルの民に臨んで、エッサ…

マルコ 9章

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 マルコによる福音書 9章24節

不信仰の中の信仰

悪霊に取りつかれた息子を救うためにこの父親は、これまであらゆる手を尽くしたことでしょう。しかし、そのすべては無駄になりました。ここで彼が「おできになるなら」と言うのも無理はありません。しかし、主はそ…

マルコ 10章

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」 マルコによる福音書 10章14節

小さい者に対する眼差し

主イエスの許に子供たちが連れて来られたとき、弟子たちは追い払おうとしました。しかし、主イエスは弟子たちを叱って、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちの…

マタイ 5章

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 マタイによる福音書 5章12節

幸いな者

5章から始まる山上の説教で、主イエスは繰り返し幸いを語られます。ここで主が語られるのは、神を信じることの幸いです。 「心が貧しい」こと、「悲しむ」こと、「柔和」(これも貧しさや無力であるという意味を含…

マルコ 11章

「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 マルコによる福音書 11章3節

小さい者を用いる主

主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。そこで用いられたのは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」でした。人を乗せたことがない子ろばは、背中に物を載せただけで驚いてしまいます。そういう未…

マルコ 12章

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」 マルコによる福音書 12章27節

生きている者の神

かつて神はモーセに現れた時に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。この「である」が大切です。アブラハムたちはモーセより以前の、過去の人物ですから、「わたしはアブラ…

マルコ 13章

「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、…あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。…目を覚ましていなさい。」 マルコによる福音書 13章35節~37節

目を覚ましていなさい

主イエスは世の終わりについて語られた最後に、それがいつ来るかは誰にも分からないので、「だから、目を覚ましていなさい」と語られます。いつ何時、主がおいでになっても良い備えをもって日々を生きるように、と…

マルコ 14章

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 マルコによる福音書 14章36節

神の御心に従う

旧約時代、イスラエルの民は、牛や羊などをいけにえとしてささげ、罪の赦しのために神との和解を求めました。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3章23節)。そのため、アダム…

マルコ 15章

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 マルコによる福音書 15章39節

神の子の死

過越の犠牲がささげられる3時に、主イエスは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この十字架において、一点の罪も見逃すことのできない義の神が、徹底的に罪を裁…

マルコ 16章

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 マルコによる福音書 16章6節

主をどこで見いだすか

復活の朝、女性たちは主の亡骸を手厚く葬るために墓に向かいました。彼女たちは主イエスを愛し、慕っていればこそ身の危険を顧みずに墓に向かいました。しかし彼女たちが捜し求めたのは主の遺体であり、死んだ主イ…

マタイ 5章

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 マタイによる福音書 5章16節

光を輝かす

きょうの箇所には、「天の国」という言葉が繰り返されています。これは、主イエスを信じる一人一人に約束をされている場所です。 その弟子たちに主は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。…

イザヤ 13-14章

まことに、主はヤコブを憐れみ
再びイスラエルを選び
彼らの土地に置いてくださる。 イザヤ書 14章1節

神に再び選ばれて

もう一度、あの時に戻って人生をやり直すことができれば、と思うことがあります。私たちの歩みには数多くの失敗と過ちがあるからです。しかし、たとえ過去に戻ることができたとしても、その度に惨めな思いをするの…

イザヤ 15章

叫び声は、モアブの全域に響き渡り
泣く声は、エグライムまで
またベエル・エリムにまで達する。 イザヤ書 15章8節

泣き叫ぶ声の中で

御言葉にじっと耳を傾けていると、至る所から聞こえてくる声があります。それはモアブの人々の嘆き声、叫び声、泣き声です。彼らの傲慢さに対して(16章6節)、神の審きがくだるとき、生きる喜びと楽しみがすべて奪…

イザヤ 16章

まことに、地上から虐げる者はうせ
破壊する者は滅び、踏みにじる者は絶える。
そのとき、ダビデの幕屋に
王座が慈しみをもって立てられ
その上に治める者が、まことをもって座す。
彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。 イザヤ書 16章4節~5節

虐げられることなく

私たちは、この世において、虐げられ、踏みにじられる辛い経験をすることがあります。その力に抵抗して立ち向かうこともできないときがあります。生涯、この苦しみの中を生きなければいけないのかという思いに捕わ…

イザヤ 17-18章

その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。 イザヤ書 17章7節~8節

造り主に目を注ぐ

信じて生きるということは、何をよく見て生きるのかということと深く結び付いているのではないでしょうか。ですから、神を信じて生きるということは、神に目を注いで生きるということです。 ただ、日々の生活を振り…

イザヤ 19章

主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。 イザヤ書 19章22節

撃たれて、いやされて

私たちは、神にいやされなければ、生きていけない存在です。それだけ深く傷つき、痛みを負っているからです。それは、何よりも罪によってもたらされたものです。 神はその罪を撃たれます。もし神が私たちの罪を見過…

イザヤ 20-21章

見張りの者は言った。
「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。
どうしても尋ねたいならば、尋ねよ
もう一度来るがよい。」 イザヤ書 21章12節

解放の朝は来る

夜。それは、光の見えない暗闇と不気味な静けさが支配する時です。そこでは、昼間には見えなかったいろいろな思いが心の底から沸き上がってきます。不安や恐れ、悲しみといった思いが色濃くなります。夜の中で、私…

マタイ 5章

「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」 マタイによる福音書 5章22節

和解への道

主イエスは十戒等を引用して語っておられます。けれども主イエスはここで律法を字義通りに守れと命じているのではありません。 「殺してはならない」ということ自体は、誰もが知っていることです。しかし、ここで主…

イザヤ 22-23章

騒音に満たされ、どよめく都
喜びに浮かれた町よ。
…お前たちは、都を造られた方に目を向けず
遠い昔に都を形づくられた方を
見ようとしなかった。 イザヤ書 22章2節~11節

喜びに浮かれることなく

生きていくうえで、「喜ぶ」ということは、とても大切なことです。喜びがいろいろな形で奪われてしまうこの世の現実の中に、神は消えることのない確かな喜びを与えてくださいました。この神に目を向けて生きること…

イザヤ 24-25章

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。 イザヤ書 25章8節

涙をぬぐってくださる神

人生にはいろいろな涙があります。イザヤがここで語るのは、私たちが犯す罪のゆえに流す涙です。自分の感情を抑えることができないとき、とめどなく涙が溢れ出るように、私たち人間は、罪の大きな力に対して無力で…

イザヤ 26-27章

我らには、堅固な都がある。
救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
城門を開け
神に従い、信仰を守る民が入れるように。
堅固な思いを、あなたは平和に守られる
あなたに信頼するゆえに、平和に。
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。 イザヤ書 26章1節~4節

堅固な信仰に生きる

私たちには、多くの欠けや破れがあります。それゆえに、何かが起こる度に、ぐらついて、倒れてしまうことがよくあります。そのような辛い経験をしているがゆえに、私たちの足取りはどこか覚束ないところがあるので…

イザヤ 28章

それゆえ、主なる神はこう言われる。
「わたしは一つの石をシオンに据える。
これは試みを経た石
堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
信ずる者は慌てることはない。」 イザヤ書 28章16節

慌てることなく

人生を揺り動かす大きな出来事に襲われると、私たちはどうしたらよいのか分からなくなり、慌てふためいてしまいます。そのような心の状態のなかでいろいろなものに必死に頼り、その状況から少しでも切り抜けたいと…

イザヤ 29章

「この民は、口でわたしに近づき
唇でわたしを敬うが
心はわたしから遠く離れている。

それゆえ、見よ、わたしは再び
驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。
賢者の知恵は滅び
聡明な者の分別は隠される。」 イザヤ書 29章13節~14節

神の驚くべき業

この世の価値観が絶対的なものではなく、もっと別の何かがわたしを支えているのだと信じたい。しかし、実際は、この世の力に引きずられながら、苦しんでいる人は多いのです。 キリスト者である私たちも、神から与え…

イザヤ 30章

まことに、イスラエルの聖なる方
わが主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、立ち帰って
静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。 イザヤ書 30章15節

静かにしているならば

神を信じて生きるということは、神を信頼して生きるということです。ところで、私たちが神を信頼しているとき、その心の中は静かになっているでしょうか。穏やかになっているでしょうか。もし少しでも心騒ぐようで…

マタイ 5章

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 マタイによる福音書 5章44節

神の愛に生きる

敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、決して簡単なことではありません。私たちは、日々の生活の中で、隣人を愛することに苦しむことがあります。 しかし、きょうの箇所で、主イエスは驚くべきことを言われます…

イザヤ 31-32章

災いだ、助けを求めてエジプトに下り
馬を支えとする者は。
彼らは戦車の数が多く
騎兵の数がおびただしいことを頼りとし
イスラエルの聖なる方を仰がず
主を尋ね求めようとしない。 イザヤ書 31章1節

何を支えにして生きるのか

困難な状況に陥るとき、自分以外の何かに頼りたくなります。その辛い状況をすぐにでも改善してくれる大きな力に頼りたくなります。たとえすぐに状況が良くならなくても、そこでなお忍耐して生きることができるため…

イザヤ 33章

今や、わたしは身を起こすと
主は言われる。
今や、わたしは立ち上がり
今や、自らを高くする。 イザヤ書 33章10節

立ち上がってくださる神

キリスト者として生きる喜びは、いろいろとありますが、その一つは、神が私たちの祈りに応えてくださるということではないでしょうか。私たちがささげる祈りに、すぐに応えてくださるときもあれば、そうでないとき…

イザヤ 34-35章

弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」 イザヤ書 35章3節~4節

よろめく膝を強くせよ

神は私たちの手、膝、心に目を留められます。それらの部分は、試練や歳を重ねるときに、最も弱くなるところです。このときの南ユダの人びとの心の状態も荒れ野や砂漠のように荒れ果て、渇き切っていました(1節)。…