キリストの僕 | ガラテヤの信徒への手紙 1章

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ガラテヤの信徒への手紙 1章

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ガラテヤの信徒への手紙 1章10節

キリストの僕

「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」とパウロが言っているのは、人からの評価を受けたいという思いが、もう今ではパウロにはないからです。

ここで、パウロは昔の自分と対比する中で「今では」と語っている、と私は理解します。昔、ユダヤ律法主義者だった頃の彼は、教会を迫害し、次々とクリスチャンを捕まえて牢屋に送り込み、多くのユダヤ人たちから気に入られて、きっとすばらしい評価を受けていたことでしょう。そして、人から評価される自分の立派な働きを誇りながら、「もっと立派な働きをして、もっと評価を受けよう」と思っていたことでしょう。しかし、「もし、今なお」そんな思いを持っているとしたら、彼は「キリストの僕」とは言えないところでした。

キリストの僕とは、自分の立派な行いに目を留める者ではなく、キリストがなされた業に目を留める者です。まことの福音に生きる者は、自分ではなく、神がほめたたえられることを求める、そういうしるしを帯びるのです。

私たちはキリストの僕。神こそ、すばらしいと告白する幸いへ招かれた者たちです。

石本 耕一(徳島西部教会)