神の律法による罪の自覚 | ローマの信徒への手紙 3章

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ローマの信徒への手紙 3章

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ローマの信徒への手紙 3章20節

神の律法による罪の自覚

わたしはキリスト者家庭で育ちませんでした。そんなわたしは、「神の律法によって、自分の悲惨さに気がつく」ということはありませんでした。

23歳で教会に行くようになるまでは、自分が罪人だとは、思っていませんでした。もちろん、完璧な人間とは思っていませんでした。しかし、ある程度思いやりもあるし、善悪の判断も自分なりにわかると思っていました。人と比べて、あの人よりは自分の方がよい、とか、悪いとか。とにかく、基準は誰かと比較することでした。教会に行くようになって初めて、わたしは絶対的な基準・物差しを教わりました。

天地万物をお造りになった神は、私たち人間をもお造りになり、この造り主が私たちの生きる基準も与えてくださいました。この造り主の基準である律法という物差しで自分を計ってみると、ずいぶん基準から外れていることに気づかされました。人との比較ではなく、神の基準である律法という物差しによって罪の自覚が与えられました。

罪の自覚が与えられたとき、わたしはとても嬉しかったです。「赦してください」と言う道が開かれたからです。

芦田 高之(新浦安教会)