見たか、神の栄光に照らされる人間の暗闇を | エゼキエル書 8章

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エゼキエル書 8章

「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 エゼキエル書 8章17節

見たか、神の栄光に照らされる人間の暗闇を

エルサレムから遠く異教の地バビロンに捕囚された民。その中に祭司の子エゼキエルがいました。「主なる神の御手」が彼に下った時、彼は神の側に立って人間が犯す罪を凝視し、また人間の側に立って神の嘆きに苦悶する預言者として生きることになりました。彼は恐れ、うずくまりもしながら、主の言葉の前に身を置き続けます。

「第6年の6月5日」(1節)。それは、エルサレム陥落をおよそ5年後に控えた紀元前592年のこと。バビロンにいるエゼキエルの目と耳に、エルサレムに残された民の罪深い有様が光景として、音として迫ってきました。神の霊はその栄光と共にエゼキエルの手を引くようにして、神殿に設置された偶像を、忌まわしい祭儀を、「人の子よ、見たか」と確認させていきます(14~17節)。神殿の内部に進むほどに、罪の深刻度は増していきました。神へのあざけりと不信、その絶望が濃くなっていきました。

その一つひとつをエゼキエルは「神の栄光」と共に見ていきます。神の怒りと痛みを知るために、見たくもない人間の暗さを見る。それも預言者の大切な使命でした。

柏木 貴志(岡山教会)