神から試みられるとき | エゼキエル書 21章

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エゼキエル書 21章

それは試みを経たものである。もし、それが侮る杖でないとしたら、一体何であろう、と主なる神は言われる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 エゼキエル書 21章18節

神から試みられるとき

ネゲブの森を焼き尽くす火も、エルサレムに向かって送られる剣も、神が神の民を、罪から悔い改めさせて引き戻させるための試練でした。それらの試練が「杖」と言われています。

火が森を焼き尽くしていくことは、イスラエルの民の目には、神の裁きとして見えたことでしょう。同じように、エルサレムに向けられた剣も、神の裁きとして見えたことと思います。しかし、これらの試練は、神の民が罪を悔い改め、神に立ち帰るよう期待されて起きたことでした。もし、神の裁きが民を苦しめるだけのものなら、神からの預言もなく、悔い改めへの招きもなかったでしょう。

私たちの信仰生活でも、時には試練が、神の裁きのように見えることがあります。しかし、その試練の中でもなお神を信頼することができます。聖書がこう約束しているからです。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5~6節)。

持田 浩次(三郷教会)