幸いな民 | 詩編 144編

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詩編 144編

いかに幸いなことか、このような民は。
いかに幸いなことか
主を神といただく民は。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 144編15節

幸いな民

主を信じる人びとは、幸いな民です。その幸いはまず信仰によって確認されるべき幸いです。そのため、その幸いを確認し確信するために、ずいぶん苦悩するということがあるでしょう。

ヨブは試練の果てに、悔い改めて主を仰ぎ見たときに、すでに幸いでした。「わたしは…自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42章6節)。

ダビデも、いろいろな試練の中で、主の御言葉によって主を仰いでは喜んでいました。「仰せを受けてわたしは喜びます、多くの戦利品を得たかのように」(詩119編162節)。

ここには、信仰の戦いに勝利する人の姿があります。信じる者の幸いは、その途上において知られるべきものです。いろいろな試練に戸惑い、疲れを覚えるときに、主が「戦するすべを教えてくださる方」であることを思い起こしましょう(1節)。主は、必ず絶えず祈れるように、どんなことにも感謝できるように、またいつも喜べるように導いてくださるでしょう。そのような戦いを続ける民は、幸いです。

主が、その幸いを証しさせてくださいますように。

貫洞 賢次(札幌伝道所)