『ハイデルベルク信仰問答』書の生い立ちと意義

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


今回から御一緒に『ハイデルベルク信仰問答』という書物を学んで行きます。本書を通して、聖書の豊かなメッセージをお伝えしたいと思います。今回は、この小さな書物の生い立ちとその意義について学びましょう。

『ハイデルベルク信仰問答』本文より 今月のQ&A  先月のQ&A



 ハイデルベルクという町がドイツの南西部にあります。ライン川支流のネッカー川沿いにある豊かな森に囲まれた美しい町です。古くからの大学都市で、町を見おろす高台には中世にさかのぼる古城がそびえています。
 『ハイデルベルク信仰問答』という小さな書物は、1563年にこの町で生まれました。城の領主と大学の神学者と町の牧師たちとのチームワークで作られたのです。神の言葉である聖書に基づく真実な教えで、子どもや若者たちを養い育てたいという真摯な願いの結晶でした。その願いどおり、本書はキリスト教信仰を最も美しく書き表した書物の一つとして迎え入れられ、今日に至るまで多くの人々から愛され続けています。
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 さて、しかし、そもそもキリスト教信仰を学ぶのになぜ聖書だけでは不十分なのだろうと思う方がおられるかもしれません。いいえ、不十分なのではありません。ただ、あると便利なのです。とっても便利です。このような書物を何度となく学ぶことで、驚くほど聖書がわかるようになって行きます。教会は、昔からこのようにして聖書を教えてきました。

 聖書は、たとえて言えば、海のようです。海の本当の豊かさ・すばらしさは、実際に海とたわむれ、海と共に生活してみなければわからないでしょう。あるいは、聖書は、深い森のようです。その奥深さ・神秘・驚きも、実際に足を踏み入れてみなければ味わえないに違いありません。
 けれども、あのはかり知れない海の全体をどうして理解することができるでしょうか。出口もわからない森の中で、どうすれば迷子にならずにすむのでしょうか。まして、これから聖書を学ぼうとする人たちに、あるいは聖書の全体をまず理解したいと願う人々には、どうしても羅針盤のような手引書が必要なのです。それが「カテキズム」と呼ばれる書物です。
 「カテキズム」というのは、もともと子供や初学者に口伝えで教える営みを表す言葉でしたが、やがてそのために用いられる書物そのものを指すようになりました。聖書のエッセンスを簡単明瞭に教える書物一般が「カテキズム」です。そのうち、親と子・教師と生徒の対話のような問答形式で書かれたものを特に「教理問答」とか「信仰問答」と日本語では呼んでいます。

聖書の豊かなメッセージを伝えるために、数え切れないほどの伝え方がある・・・。

 さて、あの海や森のような聖書をいったいどうすればわかりやすく伝えることができるのでしょうか。古来、何百ものカテキズムが作られてきた理由はここにあります。聖書の豊かなメッセージを伝えるために、数え切れないほどの伝え方があるからです。

 例えば、『ウェストミンスター教理問答』という有名な書物では、“契約”という言葉を手がかりに全体を教えようとしています。旧約・新約と言われますように、聖書は神と人間との約束または契約を教えている書と言うことができるからです。そのようにして、聖書全体のメッセージをより客観的・体系的に表そうとしているのです。これはこれで、大変わかりやすい説明の仕方です。
 それに対して、これから学ぼうとしている『ハイデルベルク信仰問答』という書物は、「慰め」という言葉を中心にすえています。これは聖書全体を体系的に説明するものではなく、聖書の本質であるキリストの福音とは何か、私たちにとってそれはどのような益また力をもたらすのかを端的に表現した言葉です。もちろん、それを愛とか喜びとか希望といった言葉で表すこともできたでしょう。しかし、この『信仰問答』が書かれた時代を生きた人たちにとって、キリストの福音が「生きるにも死ぬにも…慰め」となるかどうかは、根本的に重要な問いだったのです。
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 苦しみと悩みに満ちた時代を生きるため、人は多くの慰めを必要とします。それは、家族や友人であったり、生きがいのある仕事であったり、お金や名声であったり。そうしたことすべてがこの世を何とか生きて行くための慰めとなるでしょう。しかし、生きている間だけではない「死ぬ」時にも、他人はともかく「あなた」にとって、いくつものではない「ただ一つの慰め」とはいったい何かと、『信仰問答』は問いかけます。
 ここから私たちの信仰の旅は始まります。
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