ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問13−問15

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


「人間の救いについて」学び始めました。
この世が与える救いは無数にあるかもしれません。しかし、聖書が与えようとする救いがどれほど人間の想像を絶しているか、少しずつ学んでまいりましょう。

『ハイデルベルク信仰問答』本文より 今月のQ&A  先月のQ&A



 神に対する罪への「完全な償い」(問12)。それが、神のもとへと戻るための条件でした。けれども、私たち人間にそもそも償うことなどできるのでしょうか。これが今回の大きなテーマです。

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 まず「わたしたち自身」ではどうでしょう。残念ながらそれは無理です。なぜなら、私たちは過去に犯した罪の負債を返せないばかりか、今も「日ごとにその負債を増し加えて」いるからです。雪だるま式に増えて行く私の負債の大きさに圧倒されるばかりです。

 それでは何か他のものによって償うことが可能でしょうか。確かに旧約聖書には私たち人間の罪を償うための“いけにえ”について、数多くの規定が記されています。けれども、「単なる被造物」にすぎないものが創造者の義を満たすことができないことは、旧約聖書そのものが繰り返し教えていました。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか」(サムエル上15:22。他にも詩編40:7、50:18、イザヤ1:11、エレミヤ6:20、ホセア6:6等を参照)。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(ヘブライ10:4)。
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 そもそも罪を犯したのは人間です。「人間が犯した罪の罰を他の被造物に加え」ることで、神が満足するはずもありません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩編51:19)なのです。人をお造りになった神が、あくまでも人間自身からの償いを求めるのは当然でしょう。

 しかし「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」(詩編130:3)、「誰が燃える御怒りに立ち向かいえようか。主の憤りが火のように注がれると岩も御前に打ち砕かれる」のですから(ナホム1:6)。人間であれ動物であれ、「単なる被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷に耐え、かつ他のものをそこから救うことなど(悲しいかな)できない」のです。

 考えてみれば、神に対する「完全な」償いとは「御自身の義が満たされる」(問12)償いということですから、神御自身が納得の行くようなかたちでなければならないということです。ということは、神と等しい方が、否、神御自身が成し遂げてくださらない限り満たされることはない、ということではありませんか!

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 「それでは、わたしたちはどのような仲保者また救い主を求めるべきなのですか」?

 “仲保者”という言葉は日常語ではありません。近い言葉では「仲介者」や「仲裁者」という言い方があります。けれども、私たちに必要なのはそのいずれでもありません。単に中に入って取り次いだり、争い事を調停してくれる第三者的な人物を求めているのではないのです。
 私たちに必要なのは“償い”です。私たちの罪を身代わりとなって償ってくださり、今度こそ未来永劫にわたって神様との仲を保ってくださる“仲保者”が必要なのです。

 それは「まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方です」と信仰問答は答えます。確かにそうでしょう。神の義を満たすような“仲保者”がいるとすれば、そのような方以外には考えられないからです。

人間社会の悲惨は、罪を犯す側も犯される側も
          “償う”べき重荷を負って生きているという事実です。

 それにしても、“償い”とは何と重い言葉なのでしょうか。倒産した会社の借金を償うため、また他人様の命を奪った我が子の罪を償うために自ら命を絶つ人々がいます。あるいは、痛ましい事件で失われた家族の命の償いとして、犯人に対する死刑を求める遺族がいます。が、しかし、はたして“償い”とは何なのでしょう。何をすれば真に償いになるのでしょうか。

 人間社会の悲惨は、罪を犯す側も犯される側も“償う”べき重荷を負って生きているという事実です。皆が自分の重荷に押しつぶされそうになりながら生きているのです。いったいどうすれば、いつになれば、私たち人間の心は晴れやかになるのでしょう。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と聖書は語りかけます。あなたの重荷を降ろしなさい、と。その解決とはいったい何なのか、次回も学んでまいりましょう。

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