ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問61

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


聖書の中に記された“福音”の発見は、新しい信仰の在り方へと人々を導いて行きました。今回からしばらく、そのような信仰の“新しさ”とはいったい何なのか、御一緒に学んでまいりましょう。

『ハイデルベルク信仰問答』本文より 今月のQ&A  先月のQ&A



 私たち罪人が、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる。神の御前で全く罪のない者とみなされる。この驚くべきメッセージの発見。それが世界の歴史を大きく変えて行く発端になったと学びました。

 もちろん、そのことは初めから聖書に書かれていたことです。ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発明したのではないように、ルターがこの教えを発明したのではありません。発明ではなく発見したのです。聖書という書物が、こんなにも喜びに満ち光に満ちている書物であったということを再発見したのです。

 しかし、このような聖書の教えは当時の人々にとって全く耳新しい教えであり多くの誤解も生じました。そこで『信仰問答』も問64まで少々くどいほど丁寧に、この教えについて説明をしています。
 宗教改革の時代、4つの“のみ”が主張されました。信仰によってのみ・恩恵によってのみ・キリストによってのみ・聖書のみ、です。これらはみな互いに関係していますが、問61では「信仰によってのみ」の意味が教えられています。

 第一に「信仰によってのみ義とされる」とは「自分の信仰の価値ゆえに神に喜ばれる」という意味ではありません。信仰者の“信心の力”によって救われるということではないのです。
 信仰心が厚いとか立派な信仰であるとか、時折耳にします。事実、聖書でも「信仰」という言葉は様々な意味で用いられています。しかし、少なくとも「信仰によって救われる」という時の「信仰」には、そのような区別はありません。より信心を積んだ者がレベルの高い救いに入り、そうでない者は低いレベルの救いにしかあずかれないという区別はないのです。

 “信仰義認”とは、すでに問60で学んだとおり、私が神の前に立つのではなくキリストが私の前に立ってくださるということだからです。私が立つのであれば、天にまで届くような立派な信心が必要でしょう(それは人間には不可能です!)。しかし、キリストが神の御前で私を覆い隠してくださるのです。「ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義」となるのであって、私の信仰の価値が問題なのではありません。

 「信仰によってのみ」義とされるとは・・・
     キリストが成し遂げてくださったことを無上の喜びをもって受け取ること。

 しかし、もしキリストがすべての人の前に立ってくださるのなら、そもそも信仰など必要ないではないかという疑問が生じます。それに対する答えが、第二の点です。信仰とは、このキリストの義を受け取って「自分のものにする」ことなのです。

 せっかくすべての人のためにプレゼントが用意されていても、それを受け取ろうとする心が無ければ決して自分のものにはなりません。キリストが成し遂げてくださった償いも私が受け取らなければ、私のものにはならないのです。
 ですから、聖書の信仰は決して強制することができませんし強制してもいけません。大切なのは心です。こんな私のためにキリストが何をしてくださったかを良く知ることです。そうする中で、次第次第に、この方を信じたい・信じようと導かれる心、それが信仰です。信仰の価値ではなく、このキリストを受け入れたいと願う心。それが問われます。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。私の前に立つキリストはロボットではありません。私を愛するが故に立ってくださったのです。
 そうであれば、この方を信じる信仰もまた愛を伴うのは当然です。私の前に立ってくださる方を「わが主」と自分の口で告白する時、神の救いは実現します。そこに喜びと感謝があふれます。そこに新しく生きようとの決意が生まれます。

 「信仰によってのみ」義とされるとは、信仰の“ゆえに”でも“なしに”でもなく、キリストが成し遂げてくださったことを無上の喜びをもって受け取ること。いえ、そうする以外に罪人の私にできることなどないという、キリストへの絶対的信頼の告白です。「信仰によってのみ」が、なぜ“キリストによってのみ”と同じなのかということが御理解いただけたでしょうか。

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