ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問91−93

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


「善い行い」については、これまでもたびたび言及されてきましたが、ここではキリストによって救われた者による「善い行い」とは何かが問われます。それは普通の善行とどこが違うのでしょうか。

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 『信仰問答』は、これまで何度か“善い行い”についての問答を重ねてきました。なぜ私たちの善い行いは神の御前で義と認められないのか(問62)。私たちの善い行いは何の値打ちもないのか(問63)。恵みによって救われるなら、なぜ善い行いをしなければならないのか(問86)。そして、キリストにある“新しい人の復活”としての善い行い(問90)です。これらは大きく二つの面に分けられます。すなわち、救いのための善い行いと、救われた者にとっての善い行いです。

 聖書によれば、堕落した人間による善い行いは不完全で到底神の御目にかなうものではありません。それどころか神の意志に反した行いはいっそう神の怒りを招くだけです。私たちが救われるために、善い行いは全く役に立たないのです。そして、そのためにこそ、主イエス・キリストの十字架の死が必要なのでした。

 しかし、キリストによって救われた者が為す善い行いは、全く別の意味を持っています。それは、もはや救われるための善行ではなく、神に喜んでいただくための行為だからです。たとい現象としての行為自体は同じであったとしても、全く意味が違うのです。別に言えば、善い行いにとって大切なことは、行為そのものよりもその行いの動機と目的であるということです。

 イエス・キリストの救いにあずかった人々が為すべき善い行いとは・・・、
  神によって愛され赦された者だけが知っている喜びと感謝に基づく行いなのです。

 それでは、キリストによって神を喜び、新しく生きて行こうと回心した者にとっての“善い行い”とは何でしょうか。それは第一に「まことの信仰から」為されるものです。何か義務でするものでもさせられるのでもない。キリストに結ばれた者としての感謝と神に対する信頼から、自発的に為されるものです(ヨハネ15:5、ヘブライ11:6)。第二に、それは「神の律法」に従ったものです。なぜなら、私たちの善い行いは「神の栄光のために」為されるものだからです(1コリント10:31)。自己満足や人からほめられるためにするのではなく(マタイ6:1-2)、神に喜んでいただくためにするのですから、「わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものでは」なく神の御旨にかなって為されねばならないのは当然です。

 これらの動機と手段と目的が、キリスト者の善い行いの特徴です。たんに道徳的・市民的な善行ということであれば、信仰のある無しは関係ないでしょう。他宗教の方の中にもすぐれた善行の例はいくつもあります。事実、主イエス御自身、当時のユダヤ人社会で異端とされていたサマリヤ人を善行の模範として挙げておられます(ルカ10:25以下)。しかし、問題はその心です。イエス・キリストの救いにあずかった人々が為すべき善い行いとは、もはや救われるための行いではなく、神によって愛され赦された者だけが知っている喜びと感謝に基づく行いなのです。
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 「神の律法」は『信仰問答』の中で二回取り上げられます。一回目は“人間の悲惨さについて”の冒頭(問3)で、私たちが自分の悲惨に気づくための手段として言及されました。神への愛と隣人への愛を求める律法(問4)に従えない人間の罪深さが明らかにされたのです(問5)。
 そして、再び神の律法が登場するのが、この第三部“感謝について”です。ここでは人間の悲惨さを思い知らせる手段としてではなく、感謝を表すためのガイドブックとして紹介されています。律法そのものは同じであるにもかかわらず全く異なる意味を持つようになったのは、律法に関わる私たち自身が変化したからです。

 そうして、全生活にわたる感謝を表すためのガイドブックとして引用されるのが、有名な「十戒」です(問92)。これらの戒めは「神に対して」と「隣人に対して」の大きく二つに分けることができます(問93)。教会の伝統によって戒めそのものの数え方も異なれば、十の戒めの分け方も四つと六つだったり三つと七つだったりします。いずれも便宜的なものです。

 大切なことは、かつてはわたしの罪を暴き出すための鋭い剣だった神の律法が、今やキリストにある感謝の生活を歩むための道の光(詩119:105)として与えられていることの幸いです。このガイドブックに導かれながら、主に喜ばれる道を歩んでまいりましょう。

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