ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問96−98

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


長い教会の歴史の中で、礼拝堂に絵画や像が置かれるようになりました。その理由は何でしょう?
また、神がお求めになるふさわしい礼拝のあり方とはどのようなものなのでしょう?

『ハイデルベルク信仰問答』本文より 今月のQ&A  先月のQ&A



 神に罪赦された者の感謝の生活のガイドラインである十戒の、前半四つの戒めは、神との関係または神を愛するということについて教えています。第一戒では唯一真の神のみを信じ信頼することを学びましたが、第二戒はその神をふさわしく礼拝することについてです。

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 第二戒は「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めで、「わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない」ということを教える、いわゆる“偶像崇拝”の禁止です。

 その昔、ローマ帝国が地中海世界を支配していた時代、ギリシャやローマの人々はユダヤ教徒やキリスト教徒を“無神論者”と呼びました。彼らの礼拝の場に何の像も無かったからです。なぜ聖書の宗教は形ある神を持たないのか。理由は単純です。この神という御方が目に見えないからです。「神は決して模造されえないし、またされるべきでもありません」。目に見えない神を、目に見える形にしてはならないのです(申命記4:15)。

 “偶像崇拝”の禁止とは、しかし、異なる神を崇拝することの禁止というよりは、たとい真の神を礼拝する場合でも像を造ってはならないという礼拝の方法についての戒めです。

 神から戒めをいただくためにシナイ山に登ったモーセがいっこうに降りて来ないので人々がしびれを切らした、というお話があります。人々は早く礼拝がしたい、祭りがしたいと不平を言って、モーセの兄アロンに神を造らせました。彼らは決して異なる神を求めたのではなく、イスラエルをエジプトの国から導き上った神を造ったのです(出エジプト32:1-6)。しかし、これが主なる神の怒りを招きました。
 彼らの間違いは、単に目に見えない神を形作ったということだけではなく、神礼拝を自分の好みに合わせて行なったということにありました。礼拝を捧げる神に自分を合わせるのではなくて、自分に神を合わせようとしたからです。当の本人がそこにいるにもかかわらず、その人の写真や像の方がいいと言うのはおかしなことです。それでは実物ではなく虚像を愛していることになります。偶像(アイドル)を崇拝するとは、実にそういうことなのです。

 御言葉の説教に耳を傾ける人々が、今も生きておられる主を心から畏れ敬い、
        また心熱く愛するようになること、それがこの戒めの意図です。

 “偶像崇拝”禁止の最大の理由は、今も生きておられる真の神を私たちが生き生きと礼拝することを妨げてしまう、または著しく損ねてしまうということにあります。

 ヨーロッパで宗教改革の嵐が吹き荒れた頃、人々は聖堂の内外にあったキリスト像や聖人像などを理由も分からず片端から破壊して行きました。まるで偶像を破壊すること自体が宗教改革であるかのように考えたからです。しかし、改革者たちが願ったことは偶像を破壊すること自体ではなく、何よりも正しい神礼拝の回復にありました。

 キリスト教会がなぜ聖堂に像を飾ったり絵を描いたりするようになったのか。元はと言えば、子どもを含めた信徒たちに聖書の真理や徳を効果的に伝えるという教育的目的からであり、それらは「信徒のための書物」なのでした。
 しかし「わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません」と信仰問答は戒めます。私たちの神がお望みになったのは「御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって」教えることだったからです。画像ではなく言葉、しかも書かれた言葉だけではなく、「生きた説教」によってです。

 今日の教会において、教材としての絵や形が悪いわけでは必ずしもないでしょう。しかし、御言葉が伝える神やその恵みは、限りなく豊かです。それを表現するのに、言葉にまさるものはありません。改革者たちが説教を重んじたのはそのためです。

 改革者たちは、説教の言葉によって描かれるキリストの福音のリアリティを非常に重んじました。人の手で作った物にまさるリアリティを聴く人々の心に刻みつけることです。御言葉の説教に耳を傾ける人々が、今も生きておられる主を心から畏れ敬い、また心熱く愛するようになること、それがこの戒めの意図です。形にできないほど大きな神の御存在と計り知れない神の愛を、私たちが生き生きと感じて生きるためです。

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