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イザヤ6章
「わたしを遣わしてください」


そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。…」

「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください。」
(イザヤ 6章8節)

 イザヤは、神殿礼拝において、幻の中で天に座する栄光の主を見ます。御使いセラフィムによる賛美が響き渡り、神殿は栄光の煙で満たされました。絶対的な神の聖さを前にして、災いだ、わたしは滅ぼされる、とイザヤは恐れおののきます。ここに罪ある者と聖なる神との根本的な違いがあらわにされます。

 祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせるという神の一方的な働きかけによって罪の赦しを体験したイザヤは、「誰を遣わすべきか」という主の御声に、直ちに「わたしを遣わしてください」と献身の応答をします。

 しかし、イザヤに語られた主の言葉は過酷なものでした。悔い改めて癒されることのないために語れというのです。

 誰がこのような厳しい働きに耐えることができるでしょうか。神の恵みによる赦しにあずかった者だけが持ちこたえることができるのです。なぜなら、神の民がどんなに焼き尽くされ、切り倒されても、神は聖なる種子としての切り株(13節)を残してくださると約束しておられるからです。

 それゆえ、きょうも主が新しく芽生えさせてくださる聖なる種子の現われを待ち望みつつ、頑なな世に向かって、託された神の言葉を語り続けようではありませんか。

 

 【祈り】

 主なる神よ、キリストのゆえに、語る者を御名の力によって強めてください。

漆崎 英之(金沢伝道所)

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