2019年6月13日(木)清さとは

 いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
 聖書の使徒言行録には、ペンテコステの祭りの時に弟子たちに聖霊が与えられた様子が描かれていました。イエスの弟子であったペテロはその時、聖霊に満たされて、人々に向かってイエスを信じるように話し始めました。その勧めの最後の所で「悔い改めて洗礼を受ける」ようにといい、また洗礼によって「聖霊を受ける」といっています。

 聖霊とは神の霊であり、神そのものである方ですが、それは私たちの中に来られ、私たちの中で働かれます。ではそのお働きはいったいどういうものでしょうか。旧約聖書のエゼキエル書では聖霊が清い水にたとえられています。その水が注がれる時に人は「清くなる」といいます。

 もちろん、この場合の清さとはただ単に清潔であるという意味ではありません。むしろ、この清さとは、神と人の思いの間に一致があって、神以外のものに心を惹かれていない状態です。さらにこのエゼキエルの言葉では、私たちのありのままの心が「石の心」といわれていますが、それが聖霊によって、まったく新しい「肉の心」、血も涙もある人間らしい柔らかな心に置き換えられるといいます。そうしますと、聖霊のお働きで清くなる、ということは、私たちが神の前で、ますます神の子らしく、ますます人間らしくなっていくことを指しているのです。

 キリスト教会において度々語られる「救い」の中身は、このような意味で清くされることであって、より本来の人間らしくなっていく、心躍るうれしい経験です。