2008年2月7日(木)自由を得させるために(ガラテヤ4:21-5:1)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

宗教改革者たちが再発見した聖書が教える救いにかかわる真理は、「行いによってではなく信仰によってのみ救われる」と言うものでした。この聖書の教えは「信仰義認」という言葉で呼ばれ、親しまれてきました。人が義と認められるのはただ信仰によってであるとする教えです。
この信仰義認の教えは、しばしば二つの両極端の誤解によって正しく受け止められずにいることがしばしばあります。
その一つは、信仰によって義とされるのだから、これからも何もよい行いに励む必要がないとする怠惰な考えによってです。しかし、信仰義認の教えは決してよき行いを妨げようとするものではありません。救われる条件としてどんな人間の業も認めはしませんが、救われた者が救いへの感謝として神の御心に従って歩むことはむしろ奨励されているのです。
もう一つの誤解は、たとえ信仰によって99パーセント義とされるとしても、最後の1パーセントは人間の側に何かなすべきことがあるとする考えです。これは聖書が教える救いの恵みをまったくそこなってしまう考えです。
パウロがガラテヤの教会で直面している問題は正に「何かをしなければ救いは完璧ではない」とする考えによるものです。
せっかくキリストが勝ち取ってくださった救いの恵みと自由とを、再び奴隷となって失ってはならないのです。そのことをパウロは苦労してガラテヤの教会の人々に説いているのです。 

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 4章21節〜5章1節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」
ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

きょう取り上げた箇所はある意味ではとても難解な箇所です。ある意味ではといったのは、旧約聖書の解釈の仕方という点です。パウロがここで取り上げている創世記の箇所は、決して現代の聖書学者によって、パウロと同じようには解釈されない箇所です。現代の聖書学者は聖書の本文の意味を明らかにするために歴史的批評的な聖書釈義を厳密に施そうとします。パウロがしているように、けっして聖書を一つの比喩として、その隠れた意味を解き明かそうとはしないものです。
先ずその点からして、きょうの聖書箇所は現代の読者にとっては乱暴なこじつけのように映ります。しかし、もしその点にこだわりを持ち始めてしまうとするなら、決して先に進むことはできなくなってしまいます。
ここでは、その聖書解釈の方法が当時としてはごく普通になされた聖書解釈の仕方であったという点だけを指摘するだけで十分であると思います。聖書解釈の方法をめぐってパウロとパウロに敵対する勢力との間で意見の対立はほとんどなかっただろうと思われます。
わたしたち現代の読者にとって必要はことは、パウロの聖書解釈の方法の是非を問うことではなく、そのような解釈からどんな結論を導き出そうとしているのか、その結論に注目することが大切なのです。

パウロはアブラハムの妻サラと女奴隷のハガルにそれぞれ生まれた二人の子どもの身分に焦点を当てています。一人の子供はイサクで、その母はアブラハムの妻サラです。もう一人はイシュマエルで、その母は女奴隷ハガルでした。この二人はアブラハムの子という点では共通していました。二人とも割礼を受けているという点でも共通しています。しかし、一方は自由の身分の母から約束によって生まれた子であり、他方は奴隷の身分から生まれた奴隷の子でした。その両者はアブラハムを父親として持つというだけでは決して同じ身分を手に入れることはできなかったのです。
パウロはそもそもこの二人の母親は二つの異なる契約を象徴しているのだと言います。一方の母親ハガルはシナイ山に由来する契約、つまり律法をあらわしているのです。残念ながら、律法の行いを主張し異邦人も割礼を受けることでユダヤ人と同じようにアブラハムの子となり救いを受けることができるとする考えは、この二人の母親が象徴していることから明らかなように、決して支持することができない教えなのです。むしろ、イサクが約束によって自由の母から自由の身分を受け、アブラハムの真の相続人となったように、自由の身分の母と約束によって繋がっていることこそが大切なのです。

パウロは言います。「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。」「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」

律法のもとに逆戻りする教えこそ、自由の身分を放棄し、アブラハムに約束された恵みの相続を捨て去るのに等しいのです。