2008年2月28日(木)真の自由とは(ガラテヤ5:13-15)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「自由」という言葉はとても魅力的で素晴らしい言葉です。そして「自由」という言葉の意味ほど自由気ままに受け取られているものはないような気がします。しばしば言われることですが、自由には二つの側面があります。一つは「〜からの自由」ということです。言い換えれば、どんな束縛もない解放された自由ということです。しかし、わたしたちの思いや行動が何ものにも束縛されないで自由であると言うことがあるのだろうかと思うことがあります。
もう一つの自由の側面は「〜への自由」です。何かから解放されているというだけでは、その自由にはほんとうの意味がありません。何かをしてこそ自由に意味があるのです。自由をどう用いるのか、それこそ大きな問題です。
きょうの聖書の箇所にはこの自由の問題が触れられています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 5章13節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

今までのおさらいになりますが、すでに5章の冒頭でパウロはこう記しています。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

もう少しさかのぼったところでパウロは「自由と奴隷」の問題を割礼の問題と絡めて語って来ました。この場合の「奴隷」というのは文字通りの「奴隷」ではなく「自由」に対して用いられる比ゆ的な意味での「奴隷」のことです。5章の直前ではアブラハムに生まれた二人の子を引き合いに出して、我々こそが自由の子イサクを引き継ぐものであることを述べて来ました。さらにそこからさかのぼって3章のおしまいから4章にかけては、信仰に生きる我々こそキリストと結ばれて神の子であり、奴隷ではないことを語って来ました。それらのことを受けて先ほど引用した5章1節の言葉が語られる訳です。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

そして、きょうの箇所はその言葉を受けて、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と語りだされているのです。

パウロによれば人は誰であっても罪の束縛から自由ではないという点で奴隷なのです。思いと言葉と行いにおいて罪の影響をまぬかれることができない者は、決して自由であるとはいえないからです。もっともそれでも自分が自由だと考えるのは、正に罪にどっぷりとつかる人間の考えることです。もっとも「罪にどっぷりとつかる」といっても、人はその表現からイメージされるような、罪にどっぷりと浸かった極悪非道な存在というわけではありません。そうではないのですが、そのままでは神の御心を自由に行うことができないという点で、やはり人間は罪の束縛をうけているのです。
そして、神はその罪に対して無自覚な人間に神の律法を与え、律法は人間が罪にいかに束縛されているかを指摘しているのです。なるほど律法を完璧に守れるのであれば、そのこと自体、自分たちが罪から自由であることを証明しているといえるでしょう。しかし、残念ながら律法を完璧に守り行なえる人はひとりもいないのです。むしろ、律法は人間が罪深い存在であることを人間に自覚させ、キリストのもとへと導く養育係となったのです。
そして、この救い主キリストを信じる者だけが罪から解放され自由なものとされるのです。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」

さて、罪の束縛から解放され、また罪を指摘するための律法の呪いから自由とされたというだけでは、自由の側面のうちの一つしか満たしたことにはなりません。
そこでパウロはこの自由が何のための自由であるのかという自由の積極的な側面をこう語ります。

「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」

キリストがわたしたちに与えた自由は、罪からの解放であり、罪を指摘する律法の呪いからの解放でした。その与えられた自由を再び罪を犯すために用いるというのは、まさにキリスト教的な自由の概念の履き違いです。それはキリスト教的な「自由」という言葉に明らかに矛盾する生き方です。罪からの解放が再び罪の奴隷となる自由であるというのは明らかに矛盾しています。ですからパウロは罪からの自由を語ると共に、この自由が向かう行き先をも明確に述べているのです。

「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」

キリスト教的な自由とは罪の奴隷からの解放であると同時に、愛へ向かって進む自由でもあるのです。それは愛によって仕えあう自由なのです。言い換えれば、愛し合い仕え合うことによってこそ、自由であることがもっともよく発揮されるのです。パウロにとっては自由奔放に生きるというのと、真に自由に生きるというのとは同じことではありません。愛によって仕え合ってこそ人はまことの自由を自分のものとしているといえるのです。
なぜなら、神の律法が目指していることは「隣人を自分のように愛しなさい」という一句にかかっているからです。そして。この言葉が満たされるところには罪の束縛は見られないのです。その自由をもたらすためにキリストは来て下さったのです。
すでにパウロが述べた言葉「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とはまさにこのことと関係しているのです。
ガラテヤの教会を混乱に陥れている問題、異邦人も救いを受けるために割礼を必要としているという教えは、一見、律法の教えに適っているように見えるのですが、それはキリストが勝ち取ってくださった自由とは相容れないものなのです。