2008年3月27日(木)新しく造られることこそ大切(ガラテヤ6:11-18)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

今まで20回にわたって学んできたガラテヤの信徒への手紙の学びも、いよいよきょう最後の回になります。きょう取り上げようとしている箇所はこの手紙の結びの部分です。通常パウロは自分の書く手紙を口述筆記させることが多いようですが、結びの部分だけは自分で筆を取って直筆で記したようです。きょう取り上げる箇所も、パウロ自身が筆を手にしてしたためている箇所です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 6章11節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

すでに述べたとおり。きょう取り上げた箇所は、このガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。しかも、パウロ自身が筆を手にして書き綴っている部分です。もちろん、パウロが自分で筆を取ることは他の手紙の結びでもしていることです。そういう意味では、それほど珍しいことではありません。しかし、その書かれている内容は他の手紙の中で自ら筆をとって書いていることとは、かなり様子が違っています。
たとえば、コリントの信徒への第一の手紙やテサロニケの信徒への第二の手紙では、手紙を結ぶほんとうに短い挨拶の言葉だけが親しみを込めて直筆で記されています。ところが、このガラテヤの信徒への手紙では、かなり長い結びの言葉をパウロ自身が筆をとって書いているのです。
その内容はもう一度手紙の主要な問題を取り上げて、ガラテヤの教会に間違った問題を持ち込もうとしている人々の動機を明らかにしながら、本当に何を大切にすべきなのか、そのことが述べられています。そして、本来の結びの挨拶の言葉を最後に記して手紙を書き終えているのです。

さて、パウロは手紙を結ぶに当って、ガラテヤの教会を間違った方向へと引張っていこうとしている敵対者たちの本当の動機がどこにあるのかということを改めて指摘しています。すでに学んできたように、彼らは異邦人からキリスト教へ入信した人たちにも割礼が必要であると考えていました。もちろん、そんなことを勧めるからには、それなりの意味付けがあったはずです。異邦人からキリスト教に回心した人たちも割礼を受けるべきであると、信仰的な確信をもって勧めていたに違いありません。
ところが、パウロの分析によれば、それは決して正しい信仰に基づいていたわけではないのです。それには二つの間違った動機があるとパウロは分析しています。その一つは、「肉において人からよく思われたがる」という動機です。この場合の「人」というのはクリスチャンにはなっていないユダヤ人たちという意味でしょう。つまり、キリスト教はユダヤ伝統の割礼を軽視しているという批判をかわして、彼らに取り入るためにこそ、異邦人のクリスチャンにも割礼を受けることを勧めているのだと、その動機の不純さをパウロは指摘しているのです。
もし、異邦人クリスチャン一人に割礼を施させることができれば、それはクリスチャンになっていない同朋のユダヤ人に対して自慢できることでもあるでしょう。そういう不純な動機が見え隠れしているとパウロは指摘しているのです。
もちろん、キリスト教にとってどうでもよいことであれば、敢えてユダヤ人たちの伝統に逆らう必要はないでしょう。しかし、パウロがこの手紙の中で何度も繰り返し主張してきたように、割礼を受けるということは、キリストの救いの恩恵性、恵み性を否定することになってしまうのです。人からよく思われたいと考えること自体のすべてが悪いことだとは言いません。しかし、自分たちが信じるべきことを逸脱してまで誰かの気に入られることを求めることは、決してキリスト教信仰に生きる者のなすべきことではないのです。

もう一つの彼らの動機の間違っている点は、キリストの十字架のゆえに迫害されたくないと思う気持ちから、割礼を勧めている点です。これは先ほどの「肉において人からよく思われたがる」ということと表裏一体をなしています。この場合、十字架のゆえにクリスチャンを迫害をしているのは、異邦人たちではありません。なぜなら異邦人クリスチャンに割礼を受けさせることでその問題を回避しようとしているのですから、その行いはユダヤ人の満足に向けられたものです。十字架のキリストを信じることで受けるユダヤ人の様々な嫌がらせを回避するために、深い神学的な洞察もないままに彼らは異邦人クリスチャンに割礼を受けさせようとしているのです。

そうした敵対者たちの主張がどれほど浅はかであるのか、パウロはこう述べています。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

彼ら自身実は律法を守ってはいないのですから、割礼を勧めるの彼ら自身の動機はまったくの自己満足と形式主義に過ぎないのです。

さて、そうした敵対者たちの不純な動機に基づく主張に対して、なぜ割礼を異邦人には強制しないのか、パウロは自分が信じている事柄を大胆に語ります。
先ず第一にわたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、わたしたちには誇るものが決してあってはならないからです。キリストの十字架こそが信じる者に救いをもたらすのであって、律法の行いは何の役にも立ちません。まして人に取り入るために割礼を主張するのは論外です。

第二に神はキリストを通して新しい創造の御業を始められているからです。パウロにとって救いの完成とは新しい創造の完成なのです。パウロはコリントの信徒への手紙二の5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。こうしてキリストを通して始められた新しい創造の御業に与ることこそが、救いにとって重要な事柄なのです。