2008年5月15日(木)キリストと結ばれて歩む(コロサイ2:6-10)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

クリスチャンとして生活をするということは、すべてのクリスチャンにとってとても大切な課題です。そして、それは決して何の努力も必要としない簡単なことではありません。もし、何の努力も必要でないとしたら、パウロの手紙はほとんど書く必要がないものであったことでしょう。パウロは様々な問題に囲まれているクリスチャンたちに、主にあって注意深く生きることを勧めています。そうでないならば、たちまちこの世の流れに埋もれてしまうからです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 2章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

コロサイの信徒への手紙がなぜ書かれたのか、コロサイの教会がどんな問題に直面していたのか、今まで学んできた個所には、ほとんどその問題は触れられていませんでした。むしろ、今まで学んできたところに描かれているコロサイの教会の信徒たちの様子は、とても模範的といってもよいほどです。しっかりと福音に根ざした生活をおくっている様子が手紙の中には描かれていました。

コロサイの教会の人々が抱いていた主イエスに対する信仰も信徒同士の愛もパウロの耳に届くほど確かで(1:4)、コロサイの地に蒔かれた福音の種は、しっかりと芽をだし、成長し、豊な実を結んでいたようです(1:6)。
しかし、きょうの箇所で、この教会に忍び寄ろうとしている問題にパウロは初めて言及しています。あるいは、その問題は既にこの教会のある人たちを翻弄していたのかも知れません。詳しい内容についてはもう少しあとで具体的に記されますが、パウロはその直面している問題を「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」と呼んでいます(2:8)

パウロはそうした問題を念頭におきながら、まず第一声に「キリストに結ばれて歩みなさい」と勧めます。

実は既に学んだように、パウロは手紙の本題に入る前に、1章9節以下にところで、コロサイの教会のために執り成しの祈りを捧げています。その祈りには「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むことができますように」ということが含まれていました。パウロはまず問題に直面している教会のために祈り、そして、祈り終えてからここで具体的に勧めの言葉を記しているのです。

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから」とは、イエス・キリストを主として受け入れたと言うことです。パウロが「キリストに結ばれて歩みなさい」というその根拠は、クリスチャンがイエス・キリストをこそすべての上に立つお方であることを受け入れているという前提があるのです。
パウロは一章で学んだ祈りの言葉の中で、このキリストが万物の主であることを力強く語ってきました。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」

この、御子キリストが万物の主であることを受け入れたのですから、このキリストを主人として、このお方に結ばれて歩むことが先ず第一に求められているのです。

続く2章7節では、キリストに結ばれて歩む歩みがどのようなものであるのか、さらに詳しく述べています。

「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」

ここでは、四つの動詞を使ってそれを表しています。つまり、「キリストに根ざすこと」「キリストにあって造りあげられること」「教えられたとおり信仰をしっかり守ること」、そして「あふれるばかにり感謝をすること」です。それらのことが、パウロが考えている「キリストに結ばれて歩むこと」なのです。

ところで、このようにキリストにしっかりと結びついた生活を送るようにとことさらに強調しているのは、先ほども言いましたように、一歩教会の外に足を踏み出すと、そこには「人間の言い伝えにすぎない哲学」「むなしいだまし事」が氾濫しているからです。
パウロがここで具体的にどんな敵対者を想定しているのかは、もう少し後のところでその姿を描いています。具体的には2章16節以下に記されている事柄です。
パウロは彼ら間違った教えの人々を「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」と呼んだり(2:18)、「独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えるが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけだ」と評しています。具体的にこれらの人々が何を持ち込もうとしていたのかについては、別の機会に取り上げることにします。
いずれにしても、コロサイの教会が直面している問題は福音を骨抜きにする具体的な問題です。パウロはその間違った教えを「世を支配する霊に従うものだ」と言い、さらにそれは「キリストに従うものではない」と言います。二人の主人に兼ね仕えることはできないのです。キリストを主として受け入れ歩み始めたのならば、同時に世を支配する霊に従うことはできないのです。
しかも、パウロは単にキリストを数ある支配者と同列においているのではありません。一人を選んだからには他を選べないというレベルの問題ではなく、キリストが万物の主であるのは、第一に「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」いるからです。第二にクリスチャンは皆「キリストにおいて満たされている」からです。そうであるからこそ、「キリストはすべての支配や権威の頭」であり、このキリストにだけ結ばれて歩むことが大切なのです。