2008年8月7日(木)わたしは主のはしためです(ルカ1:26-38)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

カトリック教会とプロテスタント教会の違いは何ですかと聞かれたときに、安易にこう答えてしまうことがあります。
「訪ねていった教会堂のどこかに聖母マリアの像や絵画があったら、それはカトリック教会と思って間違いがないです。」
正確さには欠けているかもしれませんが、初めての人に難しいことを言うよりも、それが一番簡単に両教会を見分ける方法だと思います。

ところで、プロテスタント教会にはそういう事情もあって「イエス・キリストの母マリア」についてほとんど語られる機会がありません。「アブラハムの信仰」や「ダビデの信仰」について語られることはあっても、「マリアの信仰」について語られる機会はずっと少ないのです。
きょう取り上げる聖書の箇所にはまさに小さな乙女マリアの大きな信仰の決断が語られています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章26節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

先週は、主の道を備える洗礼者ヨハネの誕生を予告する天使の言葉を学びました。きょうはその同じ天使ガブリエルがマリアの所へ行ってイエス・キリストの誕生を予告する場面です。西洋美術では様々な画家たちがこの「受胎告知」の場面を絵に描いています。それくらい有名な場面です。
先週学んだザカリアとエリサベト夫妻が「既に年を取っていた」(1:6)と記されるのに対して、マリアの年齢はまだこれから結婚しようとしている若い女性でした。当時の平均的なユダヤ人の女性が結婚する年齢は14、5歳であったといわれていますから、今の日本で言えば中学三年生ぐらいということでしょうか。まだあどけなさも残っている少女です。

そのマリアに天使ガブリエルが姿をあらわしたのです。
天使が姿をあらわすということ自体も驚きでしょうが、その上に「おめでとう、恵まれた方」という言葉を掛けられてマリアはどれほど戸惑ったことでしょうか。

マリアは天使ガブリエルの言葉に「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。後にイエス・キリストが誕生して、羊飼いたちがやってきたときにもマリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2:19)とルカ福音書は記しています。この二つの記述にマリアが深く物事を考え巡らす人であったことが伺えます。もちろん、それはマリアの性格であったのかもしれません。しかし、少なからずそれはマリアの信仰にも影響を与えたことでしょう。

天使ガブリエルはさらにもっと衝撃的なことをマリアに告げます。なるほど、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」とは言われるものの、その内容は恐れずには受け取ることのできないないようです。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

天使の言葉は淡々としていますが、「あぁ、そうですか」と受け流すことができない重大な内容です。
先にザカリアに現われた天使の言葉は同じ男の子の誕生を告げる言葉であっても、それは受け容れがたい言葉ではありませんでした。なるほど老夫婦に子供が与えられるということは信じがたいことではありました。しかし、旧約聖書の歴史を紐解けば、過去にも同じようなことは既に神の手によって実現していることです。
けれども、結婚前のマリアが身ごもるということは、未だかつて聖書の歴史の中で起ったことがない、ありえない出来事であると同時に、それは倫理的にあってはならないことでもあったのです。
この同じ出来事はマタイによる福音書では婚約者ヨセフの側から描かれています。しかし、ヨセフの側から見ようが、マリアの側から考えようが、どちらにしても簡単には受け入れることができない内容であったことには違いありません。

「どうして、そのようなことがありえましょうか」と説明を求めるマリアに、天使ガブリエルは淡々と答えます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神にできないことは何一つない。」

この説明では分かったようで分からないというのが正直なところでしょう。後の教会は使徒信条と呼ばれる信仰告白で、この出来事をこう告白しています。

「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ…」

「聖霊によって宿った」とは正に天使の説明の繰り返しです。わたしたちにはそうとしか説明のしようがないのです。もちろん、さらに後のキリスト教会ではこの神秘的な聖霊による処女降誕の意味を詳しく説明しようとしています。しかし、どうしてそれが可能なのかということははやり「聖霊によって」としか言いようがないのです。

マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と御使いに尋ねましたが、しかし、受けた説明以上のことは求めませんでした。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、その答えをそのまま受け入れたのです。詳しい説明はたとえされたとしても人間の理解をはるかに越えることだったでしょう。しかし、マリアにとっては「神にできないことは何一つない」という説明で十分だったのです。神の力を疑うことよりも、むしろ、その神の業に自分を用いていただく幸いをマリアは信仰をもって受け止めたのです。神にできないことはないと心から信じて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白できる信仰者でありたいと願います。