2008年11月13日(木)誘惑に勝ったイエス(ルカ4:1-13)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

聖書によれば、人類に罪が入ってきたのは最初の人、アダムとエバがサタンの誘惑に打ち勝つことができなかったからです。その時以来、アダムとエバに限らず、どんな人も罪の誘惑に打ち勝つことができませんでした。人類が罪を重ねた結果、罪がこの世に蔓延しています。しかし、この誘惑に打ち勝つことのできるただ一人のお方がいらっしゃいます。イエス・キリストこそそのお方です。
きょう取り上げる箇所はサタンの誘惑に打ち勝ったイエスの話です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章1節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったイエス・キリストの上には天から聖霊が降り、聖霊に満ちたお方でした。洗礼をお受けになった後、すぐに荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられます。しかも40日間にもわたる長い誘惑です。
40日にわたる荒れ野での生活は、しかし、神の霊に導かれた生活でした。「引き回されて」と新共同訳は翻訳していますが、「引き回される」というと自分の意思に反してあちこち連れまわされるようなニュアンスがあります。しかし、ここで言われていることは、「引き回される」と敢えて翻訳するほどの言葉でもありません。むしろ、「導かれて」と訳した方が良いでしょう。
悪魔の誘惑は、悪魔の側から見ればイエスを罪に陥れようとする誘惑です。しかし、神の側から見れば、それは神に従う者への試練、テストなのです。イエス・キリストは神の霊の導くままに、この試練を乗り越えられたのです。

まず最初の試練は、石をパンに変えてみよ、というものでした。しかも、サタンは言葉巧みに、「お前が神の子なら」と誘いかけます。「お前が神の子なら」という言い方は、イエスが洗礼をお受けになったとき天から聞こえた声を受けています。その天からの声を肯定してこう誘惑するのです。

お前は天からの声が言うとおり神の子ではないか。それなら当然、空腹を満たすために奇跡を行うべきだろう。多くの人間が飢えに苦しんでいるのに、お前は神の子でありながら自分の空腹さえ救えないのか。今こそお前の力を使って人々を満腹にさせてはどうだろうか。

悪魔の誘惑の言葉は巧みです。わたしたちが何者であるのかという立場に上手につけ込んできます。人間だったらこうあるべきではないか。クリスチャンだったらこんな風に行動するのがあたりまえではないのか。
しかし、サタンがほんとうに求めていることは、正義の実現でもなければ救いの達成でもないのです。それは一時凌ぎの解決であって、人をほんとうに救うものではありません。

イエス・キリストは旧約聖書申命記8章3節を引用してお答えになりました。

「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」

この申命記の言葉は、神の口から出る一つ一つの約束の言葉こそが、荒れ野でさまようイスラエルを40年にわたって支えて来たと言うことを教えるものです。この神への信頼がないところには、まことの救いはないのです。

第二の誘惑は、権力と繁栄を約束する変わりに、悪魔を礼拝せよ、というものでした。悪魔の前に跪け、というのはあまりにも露骨な誘惑で、そんなものに誰も引っかかりはしないでしょう。
しかし、福音書が記していることは言わばネタバラしのようなものなのです。イエス・キリストはこれがサタンからの誘惑だと言うことを見抜いて、いち早くこの誘惑を退けられたのです。
権力と繁栄はとても魅力的なものです。そして、それ自体が罪であるとは言い切れません。繁栄は神からの祝福のしるしであると聖書にはかかれていますし、また、権力も必ずしも神と対立した悪魔的な存在ではありません。むしろ、神がお立てになった権威に人は服従すべきであると言うのが聖書の教えです。
そうであればこそ、繁栄も権力も神と矛盾するものであってはいけないのです。
しかし、そのことを忘れて繁栄を求め、権力を手に入れようとするのが人間の罪深いところです。誰しも積極的に悪魔に仕えようとする人はいません。繁栄と権力を神の御心からそれてでも手に入れ、神の御心に沿わない仕方で用いても良心の呵責を感じないところに問題があるのです。
イエス・キリストは繁栄と権力を約束するサタンの誘いの中に、神から自分をそらせてしまう危険をいち早く見抜かれたのです。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そうお答えになったイエス・キリストの言葉は、神に従う歩みにこそ、まことの幸福への道があることを教えています。

最後の誘惑は、神を試みる誘惑です。神からテストされるのはわたしたちの側であるはずなのに、いつしか主客が逆転してしまう誘惑です。これにも、もっともな理由がつけられています。

サタンは聖書の言葉を引用して、神を試すようにと誘います。神の言葉が安全を保障しているのだから、危険を恐れる必要がないと言うのです。そう言われれば、自分が信仰深いところを見せたくなるのが人間の弱さです。いえ、少なくとも信仰のない人間とは思われたくないのが人間です。
しかし、このサタンの言葉に大きな落とし穴があるのです。
なるほど、聖書は「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」ことを約束しています(ローマ8:28)。そうであればこそ、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(8:18)と確信できるのです。
しかし、万事が益となるのだから、それを引き出すために、危険を顧みず苦しみに向かうとしたら、それは本末転倒です。万事を益としてくださる神の愛があるからこそ今の苦しみに耐えられるのであって、その逆ではありません。神の愛を引き出すために無謀なことをするのであれば、それは神の愛を信じているのではなく、神を疑い試しているに過ぎないのです。

これら三つの誘惑は、イエスが打ち勝った誘惑ですが、それは誘惑に陥りやすいわたしたちへの模範でもあったのです。