2008年11月27日(木)故郷で歓迎されないイエス(ルカ4:22-30)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

人間の心はほんとうに不思議だと感じることがあります。ほんの些細なことで揺れ動いたり、昨日まで喜んでいた心が、怒りや不満に変わったり、どうしてそうなるのか理解に苦しむことがあります。それほど心というものは繊細なのだと思います。心は繊細だからこそいいともいえますが、しかし、どう繊細なのかに気をつけないと、心の赴くままに流されて、大切なものを見失ってしまう危険もあるのです。
今日の場面ではイエスの故郷であるナザレの人たちの心変わりが描かれます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章22節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

今日取り上げた箇所は、先週の話の続きです。先週学んだ箇所では、イエス・キリストが故郷のナザレを訪問されたことを学びました。安息日にいつものように会堂に行って、安息日の礼拝をみんなと一緒に守られたのです。そればかりか、その日、イエス・キリストは聖書の巻物を朗読され、その預言の意味を解き明かされたのです。
手渡された巻物の箇所はイザヤ書61章1節2節の言葉で、こう書かれていました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

このイザヤの預言の言葉そのもの自体、慰めに満ちた内容でした。貧しい人たち、捕らわれている人たち、目の見えない人たち、圧迫されている人たちに、自由と解放の福音を告げるものだからです。
しかし、もっと人々を驚かせたことは、この預言書が語っている「わたし」とは、あたかもイエス・キリストご自身であるかのように語っていることです。しかも、イエス・キリストは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と力強く断言していらっしゃいます。

先ほどお読みした聖書の箇所に記されている「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」と言うのは、このイエスの聖書の解き明かしの言葉を受けてのことです。人々はイエスの力強い説教の中に、恵み深さを確かに感じ取って、イエスを賞賛したのです。
しかし、ナザレの人々の驚きは、イエスの口から出る恵み深い言葉そのものに対する驚きよりも、たちどころに違うものへと関心が移っていってしまいます。ナザレの人々の心は、御言葉が語る恵み深いメッセージではなく、それを語っている人物が誰なのかということに関心が移っているのです。しかも、それはこの聖書の預言を実現する力をもった人物としての関心ではありません。そうではなく、ナザレの人たちの驚きは「この人はヨセフの子ではないか」というその一点なのです。

確かにナザレの人々にはイエスが誰であるのかということはよく知られていたことでした。大工ヨセフの息子として、長年自分たちの村で生活を送ってきた、顔なじみの普通の人だったからです。いえ、普通の人だったかどうかはわかりませんが、少なくともナザレの人たちにとっては、幼い頃から今に至るまでの30年ほどの年月を知っている人物です。そして、その30年の間に蓄積したデータからは、とてもそのような人物とは思えないという驚きだったのでしょう。いえ、30年間蓄積してきた情報からイエスという人物を評価したのではなく、30年間たっても、「ヨセフの子だ」という観点からしかイエスを見ていないのです。もし、幼い頃からのイエス・キリストを何の先入観も偏見もなく見ていたなら、もっと違ったようにイエスを見ることができたに違いありません。残念ながら、ナザレの人々には「ヨセフの子」というフィルターを通してしかイエスを見ることができないのです。

イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたナザレの人々の心の中はどんどん変わっていってしまいます。預言者イザヤの言葉を実現することができる人物としてイエスを歓迎するのではなく、どうして、故郷では何もしてくれないのか、という不信感が顔を覗かせます。

そのことにお気づきになったイエス・キリストはご自分の方から人々の心の中を言い当てます。

「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

確かにイザヤの預言を実現できる力を持つほどの偉大な人物ならば、何はともあれ、故郷でこそその力を発揮して、自分が神からのメシアであることを明らかにすべきでしょう。それができないのは、やはり「ヨセフの子」に過ぎないからだ、とナザレの人々は言わんばかりです。

そのような人々の考えを見抜かれたイエス・キリストはこうおっしゃいます。

「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」

故郷の人たちは幼い頃からの付き合いです。本来なら、その人のことを一番良く知っているはずです。ところが、知っているようで知ろうともしていないのが故郷の人々なのです。すでに見てきたように、ナザレの人たちにとっては、イエスはいつまでたっても「ヨセフの子」という一面的な捉え方しかできないのです。
ルカによる福音書はナザレでお育ちになるイエスを「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)と記しています。しかし、30年付き合いのあるナザレの人たちは、イエスの知恵も、神からも人からも愛されるほどのイエスをも見ようとしていないのです。

これは、ナザレの人たちの問題だけではありません。わたしたちの先入観や偏見が、神の救いの御業をあっという間に曇らせてしまうことはないでしょうか。