2018年12月20日(木) 実りのないいちじく(マルコ11:12-14)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 結果を重視すると言うのは、時として、とてもストレスに感じることがあります。どれだけ一所懸命やったかよりも、要するに何点とれたか、いくら稼げたか、それだけで人間が評価されたらたまったものではありません。人間を育てると言うことを考えると、結果そのものよりも、その結果を生み出す過程がどうであったかと言うことの方が大切だともいわれます。

 もっとも、結果重視と言っても、どんな結果が期待されているのかということによっても、ストレスのたまり方が違うと思います。

 信仰生活ということを考えるとき、聖書の世界でも実を結ぶと言うことが大切なこととして教えられています。その実とは、悔い改めにふさわしい実であったり(マタイ3:8)、神の国にふさわしい実であったり(マタイ21:43)、あるいは聖霊の結ぶ実であったりします(ガラテヤ5:22)。数値で表される目標というよりは、もっと内面的な、あるいは霊的な実を結ぶことが期待されています。

 今日取り上げる聖書の個所も、この結ぶ実と関係したお話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 11章12節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた

 今日取り上げた個所は、とてもわかりにくい個所です。ストーリー自体はとても単純なのですが、文字通りに読んでしまっては、何のための出来事なのかまったくメッセージがありません。

 おなかが空いたイエス・キリストが、いちじくを食べようと木に近づいたけれども、実がなっていなかった。それで、腹いせ紛れに木を呪った。

 もしそうだとすれば、こんなお話に一体何のメッセージが隠されていると言うのでしょう。これでは、まるで大人気ない我侭なだだっ子のお話です。

 そうではなく、この出来事は先週学んだロバの子に乗ったキリストの話と同じように、ある意味で、演じられたたとえ話と言ってよいのだと思います。

 そもそも、ぶどうやいちじくという木は旧約聖書の預言書の中で、しばしばイスラエル民族を象徴した木として登場してきます。たとえば、エレミヤ書の8章13節で、エレミヤは背信の民イスラエルを激しく非難してこう預言しています。

 「わたしは彼らを集めようとしたがと 主は言われる。 ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。 葉はしおれ、わたしが与えたものは 彼らから失われていた」

 真の平安がないのに「平和だ、平安だ」などと浮かれ、偽りの礼拝に興じているている民は、実りのないぶどうやいちじくのようなのです。

 同じようにミカ書の7章1節で預言者は腐敗しきったイスラエルの民を非難してこう預言しています。

 「悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。 もはや、食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない」

 せっかく神の力強い手によって、エジプトから導き出され、約束の土地に植え付けられたイスラエルも、神にふさわしい民となるどころか、すっかり神から離れた生き方をして、実を結ばなくなってしまったのです。

 イエス・キリストの行動はまさしく預言者の言葉を演じた一つのたとえ話と言うことができます。

 実は、イエス・キリストご自身も、ルカ福音書13章の中で同じようにいちじくの実のことを譬えでお語りになったことがあります。それは、こんな譬え話です。

 「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 このたとえ話は、明らかにイスラエルの民を非難した譬え話です。キリストが到来し、ご自分の民イスラエルのところにやってきたにもかかわらず、神の国にふさわしい実を結ばないイスラエルの民なのです。

 さて、こうした旧約聖書の預言の背景やイエス・キリストご自身のたとえ話から、イエスの取った行動を考えてみると、これは、紛れもなく演じられた預言、演じられたたとえ話であることに気が付きます。

 イエス・キリストが目にしたもの、それは葉ばっかりが茂ったいちじくの木で、実が少しもなっていないいちじくです。

 確かに過ぎ越しの祭りの行われる頃は、いちじくが実るような季節ではなかったのかもしれません。しかし、遠くから見て、いかにも実がなっていそうな外見であったのですから、期待したことが間違っていたのではありません。期待するに値したいちじくの木だったのです。

 けれども、そのいちじくの木は実際には期待を裏切る実のないいちじくでした。

 この出来事と、それに続いてイエス・キリストが神殿を清めた話とは密接なかかわりがあります。

 キリストの時代の神殿はとても立派なものでした。建物自体、弟子たちが言ったように「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」というほどに人目をひく立派なものでした。

 もちろん立派だったのは建物だけではありません、そこで行われていたお祭も盛大なものでした。特に過越のお祭りには大勢の人が集まり、捧げられる犠牲の動物の数も目を見張るものがありました。

 けれども、そのような立派な姿をイエス・キリストが見るに、それは、ただの葉っぱが茂ったいちじくの木に過ぎなかったのです。そこからはどんな役立つ実も受け取ることができません。

 1人1人がこの出来事に学ばなければなりません。私たちの信仰の歩みが、葉ばかりが茂って、実のないいちじくの木のようになってはいないでしょうか。いえ、実際実を結ぶことができない者であるからこそ、イエス・キリストの救いを必要としているのです。それに気がつくことが大切です。