2019年6月13日(木) 主は裏切られ、見捨てられ(マルコ14:43-52)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語の表現に「蜘蛛の子を散らす」という言い方があります。ちりぢりに逃げて行くさまをそう表現します。今日これからお読みしようとする個所は、イエス・キリストを見捨てて、弟子たちが散り散りに逃げ行く場面で終わります。

 最後の晩餐の席上で、たとえ死ぬことになっても、自分たちの先生であるイエス・キリストを、決して見捨てることなどしないと、口々に言い合っていた弟子たちでした。キリストが予告した通りのことが、弟子たちに起こります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 14章43節〜52節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

 先週学んだゲツセマネの祈りの場面では、眠りこける弟子たちの中で、一人孤独に祈るキリストの姿を学びました。キリストの苦悩を分かち合おうという思いもなく、ただ、眠りこけている弟子の姿と、これから担おうとするメシアとしての苦難を思い神のみ心を尋ね求めるイエス・キリストの姿が対照的に描かれていました。

 ゲツセマネの祈りの場面でイエス・キリストが弟子たちに最後に語った言葉は、もはや、苦悩をふっきり、確信に満ちた力強い言葉でした。

 「もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」

 こうイエスが語り終えないうちに、裏切り者のユダが武装した群集とともにやってきます。それが今日の場面です。

 既に学んだとおり、イスカリオテのユダは祭司長や律法学者たちと相談し、お金と引き換えにキリストを引き渡す手はずを整えていました。いったいどれだけの数の群集がやってきたのかはわかりませんが、これだけの人々を動員できたのも、ユダ一人の手配ではなく、背後にユダヤ最高法院の協力があったからです。ちなみにヨハネによる福音書の記述では、ローマの一隊の兵士も加わっていました。イエス・キリスト一人を捕らえるのに、それほどに大掛かりな捕り物劇を繰り広げるのは、少し大袈裟のような印象も受けます。しかし、それは裏切り者のユダをはじめ、ユダヤ最高法院の議員たちが、キリストをどれほど恐れていたかの証でもあります。と同時に、この逮捕劇は絶対に失敗を許さないほどの覚悟で臨んでいたと言う証でもあります。

 わざわざユダに先導させるというのも不思議な気がします。あれほどまでに神殿境内で堂々と語っていたイエス・キリストのことですから、知らない人はいないはずです。ユダはキリストの居場所さえ教えれば、それで十分だったはずです。過越のお祭りの頃は丁度満月の頃ですから、雲さえなければ、月明かりだけで十分どこに誰がいたのか認識できるはずです。

 しかし、ユダの役割はただの案内役に留まるものではなかったはずです。キリストに近寄り親愛の情を込めた接吻を演技して、いかにもキリストを安心させるような素振りをしました。だれでも、辺りに人のざわめきを感じれば警戒心を抱くはずです。しかし、ユダの接吻はあたかもその警戒心を取り除くようにして、イエス・キリストを欺いたのです。

 キリストご自身がおっしゃっているように、毎日神殿の境内で教えていたのですから、正々堂々と捕らえるチャンスはいくらでもあったはずです。ここまで卑劣に落ちていったユダとその一味の姿は、勇ましいというよりは哀れ以外の何ものでもありません。

 あまりにもすんなりと逮捕されてしまったキリストに、気が抜ける思いがしたかもしれません。しかし、それらすべては「聖書の言葉が実現するため」でした。ゲツセマネの園で祈られたキリストの祈りは、こういうかたちで聞き挙げられました。

 イエス・キリストを逮捕しようとやってきた人々の息も荒い姿とゲツセマネの園で祈り終えて確信と平安に満ちたイエス・キリストの姿がとても対照的です。

 さて、居合わせた弟子たちはといえば、確かに最初は勇ましく迎え撃とうと、剣をかざします。誰とは具体的に書かれてはいませんが、居合わせた人々の一人が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかって、その片耳を切り落としたとあります。ヨハネによる福音書では、ペトロが剣を抜いたと記されます。ペトロは最後の晩餐の席上で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言葉を荒げた弟子です。その言葉のとおり、勇ましい態度に一度は出ます。

 しかし、イエス・キリストが自ら進んで逮捕されてしまうと、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とマルコ福音書は記します。最後の晩餐の席上でイエス・キリストが語ったあの預言の言葉が成就します。

 「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」

 その預言の言葉のとおり、弟子たちはキリストを見捨ててしまいました。イエス・キリストの十字架の場面もむごたらしい場面ですが、しかし、キリストをひとり見捨てて逃げ出してしまうこの場面も、同じくらいむごたらしい場面です。人間の弱さと罪深さをまざまざと見せ付けられる思いです。すべてをイエス・キリストの身に負わせて、さっさと消え去ってしまう人間の罪深い姿です。

 しかし、その人間の弱さを誰よりも良くご存知のイエス・キリストが、すべてを引き受けて十字架の道、わたしたちの罪の救いの道を歩んで下さいます。