2012年1月29日(日) 交わり

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。

 先日、仲の良い友達とキリスト教会の話をしておりましたら、話題が「交わり」の話になりました。クリスチャンではないその友人は、教会でよく使われる「交わり」という言葉がどうも気持ち悪いというのです。「はて、何のことだろう」と思っていると、こう言うことでした。

 その友人独特の感性なのかもしれませんが、「交わり」というと、何かいかがわしいイメージを抱いてしまうというのです。確かにキリスト教会に馴染みのない人がいきなり「兄弟姉妹の交わり」という言葉をきいたら、ぎょっとするかも知れません。

 しかし、キリスト教用語の「交わり」という言葉を、単に「交流」とか「仲間意識」とか「連帯」などと言ってしまったのでは、十分なニュアンスが伝わらないように思います。
 かといって、この「交わり」を別の言葉でうまく説明しようとしても、それもまた難しく感じます。ひょっとしたら、この「交わり」という言葉を長年使って来た自分ですが、実は自分でもよくわかっていないのかも知れません。いえ、分かってはいても言葉で正確に表現することがあまりにも少なかったのかもしれません。

 そもそも「交わり」というキリスト教用語は、英語の「フェローシップ」から来ています。あるいは「コミュニオン」という言い方もあります。これではただ縦の文字を横文字に言い換えただけで、何の説明にもなっていないのですが、それでも少しは理解の助けになればと思い言ってみました。
 さらに、この英語をさかのぼっていくとギリシア語の「コイノーニア」という言葉に行き当たります。この単語自体は新約聖書の中に20回にも満たない数しか登場しませんが、重要なキーワードです。

 さて、このコイノーニアという単語には、同じ共同体への帰属意識があるように思います。また同じ共同体に所属する者として、その者同士が何かを共有しているイメージもあります。そういう意識や感覚をキリスト教会は大切にしているということです。
 特にこの教会という共同体は、もっとも親密な共同体である家族をイメージして描かれることがあります。実際聖書には教会を指して「神の家族」という表現も出てきます。そして、神を父親に持つ兄弟姉妹として互いをイメージしています。
 共同体への帰属意識というものは、何もキリスト教会だけが持っているものではありません。しかし、確実に言えることは、現代社会では「共同体」と呼べるものがほとんど姿を消してしまったということです。それは個人主義の影響と他人への無関心とが相まって、そういう結果になったのでしょう。
 もちろん、同じ趣味を持ったものが集まる同好会的なグループや利害関係の深い政治的な集団は今でも存在しますが、人生を共にするような共同体というものはほとんど姿を消してしまいました。
 そういう世の中であるために、教会の「交わり」という言葉は変な感じを与えるのかもしれません。しかし、こういう世の中であるからこそ、「交わり」についてもっと語らなければならない必要を覚えます。