2019年8月18日(日) 責任のなすりあい

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 旧約聖書『創世記』の3章に記された人類堕落の物語は、読んでいて決して他人事とは思えない内容です。読んでいてドキドキしてきます。蛇の誘惑に負けて、禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバは、神の前から身を隠そうとします。ここに、神の言いつけに背く人間の本質的な姿が描かれているように思います。

 それまでは、神と共にいることを少しも恥じらったり怖がったり思わなかった二人です。しかし、罪を犯して堕落して以来、アダムもエバも神から身を隠さなければならないと感じるようになりました。もっとも罪を犯して、まずいことをしたと思ううちはまだましかもしれません。アダムの時代から時を重ねるうちに、神のみ前に良心の呵責すら感じないということも起こってきました。

 では、罪を犯して逃げ隠れするアダムとエバを、神はどのように扱われたのでしょうか。神が最初に発した言葉はこうでした。「どこにいるのか。」(9節)すべてをご存じの神が、アダムとエバの居場所を知らないはずはありません。そうかといって二人を詰問するわけでもなく、二人が呼びかけにどう反応するか、神は二人の答えをじっと待っておられます。
 
 アダムが口を開いて、正直に自分の心情を語ります。しかし、決して自分たちのしたことは語りません。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(10節)

 それに対して、神は彼らがしたことを自分たちの口で告白するまで、忍耐強く質問を続けます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」ここまで聞かれれば、白状しないわけにはいきません。しかし、それは決して自分の落ち度ではないと言わんばかりに、アダムは神にこう述べます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12節)

 食べたのは事実ですが、それは、あなたがわたしをあんな女と一緒にしたからです、とでも言いたげです。けれども、神はアダムの言葉をそのまま受け止めて、今度はエバに問いかけます。「何ということをしたのか。」(13節)エバもアダムと同じように、責任を蛇に転嫁します。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(13節)
 
 神は二人への質問をあっさりと切り上げて、蛇に向かってこう切り出します。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。」(14節)もはや、蛇に対しては質問ではなく、一方的な裁きの宣言です。

 ここまでの二人の態度を見ていると、神への愛もお互い同士の愛もすっかり消え去っています。自分の身を守るために必死です。二人の人間に対して、神は忍耐強く接してくださっているにもかかわらず、この二人はその愛を裏切って自分の身を守ることに一生懸命です。この態度こそが、堕落した人間の姿であるように思います。神のかたちを与えられた人間が、神のかたちに生きることを放棄して、神から隠れ、共に生きるはずの他者に自分の責任を転嫁する、そこに罪の世界の悲惨さがあります。

 さて、そのことを語る聖書の意図はどこにあるのでしょうか。指摘されても、どうすることもできない事実であれば、語る意味がありません。しかしそうではありません。この罪の悲惨から人間を救ってくださるご計画が神にあるからこそ、聖書は罪と堕落の悲惨さを指摘しているのです。