2020年11月15日(日) お返しをされない幸い

 おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
 今朝はルカによる福音書14章12節から14節の御言葉に耳を傾けましょう。お読みいたします。

 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 あなたは家で食事会をするとすればどういう人を招くでしょうか。多くの人は親しい友達や親族などを招くのではないかと思います。しかしイエス様は今日の(聖書の)所で、自分を食事に招いてくれたファリサイ派の議員に対して言われました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。」

 イエス様はなぜこのように言われるのでしょうか。その理由として「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」とおっしゃっています。確かに「友人や親族や近所の金持ち」を食事会に招いたら、その人たちもお返しに食事会に招くかもしれません。イエス様はそうならないように、そういう人たちを食事会に呼んではならない、とここでおっしゃっているのです。

 ではどういう人を食事に招けばよいのでしょうか。イエス様はこうおっしゃっています。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」自分の収入では食べていけないような貧しい人、あるいは自分の力だけでは生きていくことが困難な体に障がいのある人。そういう人々を食事に招きなさいとイエス様は言われるのです。

 イエス様を招いたファリサイ派の議員は、自分の友人や親族や近所の金持ちを食事会に招くことはあっても、貧しい人や障がいのある人を招くことはなかったと思います。むしろ彼らは「貧しい人や障がいのある人」を見下し、自分たちの交わりからは排除し、遠ざけていたのです。

 私たちの生きる社会においても、貧しい人や障がいのある人はしばしば差別を受けています。昨年大きな台風19号が日本を襲った際、避難所に入ろうとしたホームレスの2人が受け入れを拒否されるということが起こりました。2016年には相模原の「やまゆり園」で知的障がい者19人が殺されるという痛ましい事件も起こりました。また知的障がい者の施設を建設しようとしたところ、地元の住民から反対されるということもあるようです。このような出来事の背後には、貧しい人や障がい者を自分に不利益をもたらす邪魔な存在と考え、自分たちの交わりから排除しようとする、そのような思いがあるのだと思います。

 しかしイエス様は貧しい人や障がいのある人を排除するのではなくて、むしろそういう人々をこそ食事会に招くように、自分たちの交わりに招き入れるように言われるのです。そしてイエス様は「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」と言われます。これはこの世の考え方とは全く反対です。普通は貧しい人や障がいのある人を食事に招いても自分には何の得もないと考えるのだと思います。

 しかしイエス様は「その人たちはお返しができないからこそ、あなたは幸いだ、幸いになる」と言われるのです。その理由は「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われるから」です。「報われる」とは「お返しをされる」という言葉です。貧しい人や障がいのある人自身はお返しをすることができません。そのような力がないのです。しかし正しい者が復活する時、神様からあなたはお返しをされることになる。報いをいただくことになる。だから、あなたは幸いだ、幸いになる、とイエス様は言われるのです。

 しかしなぜ神様が代わりにお返しをしてくださるのでしょうか。今日の箇所に続くところで神様はご自分の宴会に「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招いておられます(ルカ14:21参照)。すなわち神様にとっては「貧しい人や障がいをもった人」が高価で尊い、大切な存在であるということです。それゆえにそのような人を招き、もてなした人には神様が終わりの時にお返しをしてくださるのです。

 私たちはそのような神様からのお返しに期待をしつつ、自分ではお返しができないような弱い立場にある人々をこそ招き、もてなす者になりたいと思います。