2023年9月4日(月) イザヤ19章 裁きの恵みを受けて


主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。(イザヤ19:22)

 刑罰は、犯した罪への報いという一面を持つとともに、人を悔い改めへと導く教育的な面も備え持っています。

 私が保護司をしていて出会った受刑者の中に、仮釈放を希望しないという人がいました。多くの前科のある累犯者だった彼は、ついに更生への決意を固めたことによって、刑期満了まで懲役を務め上げることを自ら希望したのでした。それは保護司の立場から見れば愚かですが、私は彼の気持ちを尊重することにしました。彼は釈放されると、もはや義務もないのに訪ねて来てくれました。

 悔い改めの途上にある人は、刑罰さえも恵みとして受け入れ、そこには感謝さえあるのです。救いの途上にある人にとって、裁きは決して裁きのままでは終わりません。

 イザヤの時代のエジプトでは、次々に王朝が立っては倒れ、争乱が起こっていました。そのような中で不安に陥った人びとは偶像崇拝や降霊術に依存しました。これらの悲惨な状況の背後には、じつは主の裁きがありました。自然環境にさえも及ぶ主の裁きですが、16節以下では裁きの後のいやしと祝福へと論調が転じます。「主に立ち帰」るとき、きっとエジプトもまた、主の裁きの恵みに目が開かれることでしょう。

 【祈り】 私たちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめに感謝します。