BOX190 2004年9月29日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「安息日を守れない人はクリスチャンになれない?」  東京都 T・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのT・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、初めてまして。突然のメールで失礼します。
 わたしは現在求道中ですが、洗礼を受けるまでもう少しと言うところまで行きました。しかし、どうしても解決できない問題があり、今後どうしようかと悩んでいます。
 その問題と言うのは、仕事のことです。わたしは仕事の都合でどうしても日曜日の礼拝を守れない日が一年の内の大部分を占めます。たまに仕事の都合で礼拝に出られないというのなら、仕方ないかもしれませんが、わたしの場合は、恒常的に出られないといった方がいいかもしれません。
 根本的に問題を解決するには、仕事を変えればいいことはわかっています。しかし、この歳でまったく違う業種に転職することは、現実的ではないと思います。最初からクリスチャンであれば、大学を卒業して仕事を選ぶ時、安息日のことも考えに入れたかもしれません。しかし、そのときは自分がクリスチャンになることは予想もしていなかったことですし、いまさらそのことを言っても始まりません。
 はやりわたしには、クリスチャンとなることを諦めるか、仕事を変えるかしか選択の道はないのでしょうか。
 こんなことを言っては、負け惜しみかもしれませんが、日曜日の礼拝を守れるクリスチャンはよほど恵まれているのだと思います。もっと皮肉なことを言えば、バスや電車を利用して教会に通い、礼拝堂では電気を必要とする音響設備を使って礼拝を守り、お昼に近所のスーパーやコンビニでお弁当を買って食べているクリスチャンは、良心に何の呵責もないのでしょうか? 日曜日に仕事の需要があるから、わたしたちは働かされるのです。
 モーセの十戒の中に出てくる安息日の規定は、自分さえ安息日が守られればいいというようなものでしょうか。そこには、自分ばかりか、僕や家畜に至るまで安息日が守られるように配慮することが求められているのではないでしょうか。
 私自身が安息日を守れないことを棚に上げて、何だかとても失礼なことを書いていることはわかっています。しかし、わたしのうちにある複雑な気持ちをぜひ受けとめて、アドバイスをください。よろしくお願いします。」

 T・Yさん、はじめまして。お便りありがとうございました。T・Yさんがキリスト教を求めていらっしゃること、そして、洗礼を受けようと真剣に思っていらっしゃることをお伺いして、とても嬉しく思いました。しかしまた、直面している問題をお聞きして、胸が痛む思いがしまいした。
 T・Yさんがおっしゃるとおり、何の妨げもなく礼拝に集うことのできる人は恵まれた人であるかもしれません。もっとも、「何の妨げもなく」と言ってしまいましたが、暇と健康を持て余している人が礼拝に来ている訳ではありません。日曜日の礼拝に集うために、平日の健康管理に努めているおばあちゃんをわたしは知っています。日曜日の礼拝を守れるようにと何度も転職した人のことも知っています。もちろん、健康を管理したり、仕事を変えることができるということ自体が恵まれていると言えばそうに違いありません。しかし、何の努力もしないで日曜日の礼拝を守ることができるとほど恵まれている人がいるとは、わたしには思えません。みんな何がしかの困難を克服して礼拝に集う習慣を身につけたのだと思います。もちろん、だからといって、日曜日に礼拝を守れない人が努力不足なのだなどとも言うつもりはまったくありません。

 さて、T・Yさんから投げかけられた問いについて考えたいと思いますが、二つのことがあったように思います。
 一つはご自分が安息日の礼拝を守ることに関して、どういう態度であるべきかと言うことだと思います。
 もう一つは安息日を守る上で他者への配慮をどう考えるべきかという問題です。
 最初の点に関して、T・Yさんは日曜日に仕事をせざるを得ない今の職場を辞めるべきか、それともクリスチャンになることをやめるべきか、この2つしか道がないようにお考えのようです。しかし、それは極論のような気がします。
 安息日の問題に限らず、「モーセの十戒は守るべきだ」と言う考えは正しいと思います。しかし、「それが落ち度なく守れないならば、クリスチャンにはなるべきではない」という考えには賛成できません。
 安息日の問題に限らず、モーセの十戒が求めていることは、神への愛と隣人への愛です。もし、神への愛がなければ、たとえ形式的に戒めと行為が合致していたとしても、それは意味のあることではありません。もし、形式的に日曜日に礼拝を守ることさえできればよいと思っているのでしたら、それは大きな間違いです。
 逆に神への愛があっても、行いがそれに伴わないならば、それは不完全な愛であるかもしれません。しかし、行いが伴わない愛が不完全だからといって、その愛を投げ出してしまえば、何も出来なくなってしまいます。
 大切なことは神と隣人への愛を抱きつつ、たとえ最初は不完全であっても、それをまっとうできるように努めつづけることではないでしょうか。それは、安息日についてばかりではなく、モーセのどの戒めについても言えることです。

 さて、もう一つの問題ですが、安息日を守る上で他者への配慮をどう考えるべきかという問題です。これは耳の痛い話です。確かにT・Yさんが憂いていらっしゃように、クリスチャンは自分が安息日を守ることには熱心ですが、他人が安息日を守れるように配慮することには無頓着なことが多々あるように思います。ご指摘のとおり、バスや電車を使って礼拝に来たり、電力を使って日曜日の礼拝を守っている限りは、日曜日の労働をなくす事を教会自体が不可能にしているともいえるかもしれません。
 ただ、安息日に完全にあらゆる労働を無くすことが必要なのかというと、わたしはそうは思いません。例えば病院や消防署に勤務のある人は、安息日だからといって仕事をストップするわけには行きません。公共の交通機関や電力などのライフラインも止めることは出来ないでしょう。そういう仕事に直接ついている人、あるいはそういう仕事の周辺で働いている人が、安息日を守れないと言うことがあったとして、ほんとうにそのことが非難されるべきことなのかどうか、わたしには疑問です。
 いずれにしても、T・Yさんが指摘してくださった、他社への配慮の問題は、大切な点だと思います。安息日は神への愛の現れであると同時に、他者を配慮する隣人愛を実現する日でもあることを覚えたいと思います。

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