聖書を開こう 2004年1月1日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神よ、わたしを極めてください(詩編139:1-18)

 新しい年を迎え、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。きょうもご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。今年もどうぞよろしくお願いします。

 元旦といえば、新しい年の期待に胸を膨らませ、1年の抱負を語り合う、そういう機会となる希望に満ちた出発の日です。けれども、何もかもが失敗続きで、自信を失ってしまっている人。悲しみの中でとても1年の希望など語る気持ちもしないという方、また体力も気力も衰えを感じて、今さら何か新しいことを一念発起する力もないという方、そういう方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、どんな人にとっても力となり励ましとなる神の言葉に、1年の最初のこの日に、ご一緒に耳を傾けたいと思います。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。聖書の個所は詩編 139編1節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。

 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

 わたしは言う。 「闇の中でも主はわたしを見ておられる。 夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。 夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。

 あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。 わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。 御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。 あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。 神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。」

 24時間365日、休むこともなく、誰かがわたしのことを見ている。そんな事を聞いた時、それはとても堅苦しくて、窮屈なことのように感じるかもしれません。
 確かに、日ごろ人間関係の中で忙しく動き回り、人に気を遣いながら生活をしている人にとっては、誰にも知られないところでたった一人になって寛ぎたいと思うのは当然です。確かに人間はどんなに気を遣わない相手であっても、46時中一緒にいたのでは、気の休まる暇もありません。
 自分をあるがままに理解し、受け入れ、裏も表もなく接してくれるような相手というのは、理想としてはそのような人のことを思い描けたとしても、現実にはまず存在するものではないからです。人は人を誤解し、人は人を受け入れ切れないからです。
 しかし、この詩編139編の作者は、神がいつもともにいてくださる幸い、神が自分のことを知っていてくださる喜びを歌っています。
 神は自分のことを究めて下さり、あるがままにわたしを評価してくださり、そのわたしをそのままに受け入れてくださるお方だからです。生まれるまでのことも、生まれてからのことも、起きている時も休んでいる時も、すべてを偏りなくご存知だからです。
 誰かに自分のことを一部分だけ知られるということは、それが良いことであっても悪いことであっても、気を遣ってしまいます。自分が実際以上に大きなもののようにみられたのでは、いつも背伸びしていなければならなくなってしまいます。逆に実際より小さい者と見下されてしまえば、それもまた心中穏やかではありません。
 しかし、神の御前では自分は自分であるとおりに見られ、受け入れられているのです。何よりもわたしを造って下さったお方であるので、どんな部分も隠さずに知っていてくださるからです。神の前で生きるということには、そういう心の平安があります。

 また、この詩編の作者はどこに行っても神がともにいてくださる恵みを歌っています。
 だれでも海外に旅に出るときには、パスポートを必ずもって出かけます。そのパスポートには、このパスポートの所持者が、そのパスポートを発給した国の国民であることが記されています。そして、どの国を通過する時にも、このパスポートを持った者に対して保護を与えるようにと記されています。しかし、このパスポートがなければ海外では自分が自分であることの保証がありません。
 けれども、神にとってはわたしがわたしであることは明らかです。たとえ地の果てに行こうとも神の力の及ばぬ世界はありません。わたしがどこに行っても神の恵みと保護のもとに置かれているのです。わたしをご存知の神がどこにでも遍くいてくださる、特定の場所にとらわれることなくいてくださるということは、わたしたちにとってわずらわしいことではなく、かえって、安心の材料なのです。

 このいつでもどこにでもいてくださる神が、この番組を聴いていてくださっているリスナーのあなたとともに、この一年もまた歩んでくださることを切にお祈りいたします。どうか、希望の光が見いだせなくて、新しい年の初めに戸惑いを感じていらっしゃる方も、わたしたちを知り尽くし、共にいてくださる神さまの力に支えられますように。

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