聖書を開こう 2004年5月20日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 救いの達成のために(フィリピ2:12-18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読むときに、いつも心を留めておかなければならないことが2つあるように思います。特にパウロが教会に宛てて記した手紙を読むときにはこの2つのことが大切です。その2つのことというのは、この手紙を読むときに「わたし」という一人の人間を意識しながら読むと言うことと、もう一つはこの「わたし」が属する教会という「共同体」を意識して読むという、2つのことです。このわたしがクリスチャンとしてどう生きるのか、そのことを聖書から学ぶことはとても大切なことです。自分の個人的な救いと生き方をどこか脇へ置いて、まるで他人事のように聖書を読むことは出来ません。
 しかし、それ以上に大切なことは、聖書は共同体としての神の民に宛てて書かれている書物であると言うことです。特にパウロの書いた手紙は教会に宛てて書かれた手紙です。従って、そこに書かれていることは、どれも一つの共同体として取り組まなければならないことが記されています。
 きょう、これらお読みしようとしている個所も、是非そのことを念頭において味わってみてください。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。フィリピの信徒への手紙 2章12節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

 きょうの個所も1章27節から続く一連の勧めと理解することが出来ます。その1章27節でパウロはフィリピの教会の人たちに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めました。それは福音に敵対する者達に対して、教会が一丸となって戦う必要があったからです。そこで、パウロはフィリピの教会の人たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」になるようにと願いました。そのためには「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」することが大切です。そのようなへりくだりと従順の模範はイエス・キリストのご生涯の内にこそあるとパウロは提示しています。それが前回学んだ点です。
 きょうの個所はそのキリストの模範を受けて、「だから、わたしの愛する人たち」と呼びかけて、1章27節から始まった一連の勧めをまとめようとしています。

 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」

 この長い文章の結論は「だから、自分の救いを達成するように努めなさい」ということです。その途中に「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら」という言葉が挿入されています。

 「だから、いつも従順であったように、わたしが共にいない今はなおさら従順でいなさい」というのかと思うと、そうではなく「いない今はなおさら自分の救いを達成するように努めなさい」と結んでいます。それでは文章のとおりが悪いので、今、ここでの学びで使っている新共同訳の聖書では、言葉を補って「いつも従順であったように、わたしが共にいない今はなおさら従順でいて、自分の救いを達成するように努めなさい」と意訳しています。
 結論から言うと、パウロがここで言おうとしている「従順」とは、結局のところ「福音にふさわしい生活をして自分の救いの達成に努める」と言うことなのです。パウロがフィリピの教会にいた時、フィリピの教会の人たちは福音にふさわしい生活をして自分の救いの達成に努めていました。パウロが居ない今はいっそうそのことに努めるようにとパウロは勧めています。
 ここでいう「救いの達成」とは、ただ、個人的な救いのことが念頭にあるのではなく、特に福音に敵対する者たちを前にして、共同体として福音に堅く立ち、共同体として完成されることをパウロは意識しています。「自分の救い」と言うよりは、むしろ「自分たちの救い」と訳した方がパウロの意図が正確に伝わるでしょう。

 ところで、「自分たちの救いの達成のために努める」というと、まるで救いの完成が叶うのも叶わないのも、ひとえにフィリピの教会の姿勢如何に関わっているような印象を抱いてしまいます。そこで、パウロは誤解のないように、次の節でこう述べます。

 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

 すでに1章の6節でもパウロは述べていますがフィリピ教会で「善い業を始められたお方」は神様ご自身であって、その同じお方が「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると」パウロは確信しています。同様に2章13節でも、パウロは背後にある神の力強い働きを見ています。すでに働きを始められた神がわたしたちの心に働きかけてくださるからこそ、救いの達成を熱望する思いがわたしたちのうちに起り、そのように神の働きかけがあるからこそ、この救いの達成には希望があるのです。
 パウロはこの神によって建てられた共同体が行き着く将来の姿をこう描きます。

 「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」

 既に学んだ1章10節のパウロの祈りの言葉にも「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりますように」とありました。これはキリストの日、つまり世の終わりの時に完成される希望の姿であると同時に、特に2章15節では「よこしまな曲がった時代の中で」とありますから、パウロは終末の時代を先取りした形で現在のことにも目を留めているのです。
 「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」、そのような共同体として教会がたて挙げられていくことを願いましょう。

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