聖書を開こう 2004年8月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐(1テサロニケ1:2-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語の表現に「立て板に水」と言う言葉があります。立てかけた板に水を流せば、留まることなくさっと流れてしまいます。そこから、舌がすらすらとしてよどみなく話すさまを「立て板に水」といいます。
 パウロの手紙はほとんどが口述筆記されたものだといわれています。読んでいると、すらすらと言葉が淀みなく出てきていると思われる部分もあれば、言葉を選んで慎重に語っていると思われる部分もあります。きょう取り上げようとしている個所は、原文のギリシャ語では一つの文章で一気に語られています。次から次へと言葉があふれ出てきて言いよどむことがありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 1章2節から5節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。」

 先ほども触れましたが、今お読みした個所はギリシャ語の原文では一つの文章です。日本語に翻訳する時には適当なところで文章を区切って句読点をつけていますが、本来はよどみなく流れ出た言葉なのです。
 パウロの手紙はどの手紙もほとんどそうですが、差出人と受取人、そして短い挨拶の言葉が記されたあとに、感謝の言葉が続きます。今お読みした分部は、パウロの手紙の形式から言えば感謝の言葉を述べている分部です。つまり、2節から5節まで、いっきに感謝の言葉を述べているということなのです。
 ところで、2節の冒頭の言葉は「わたしたちは神に感謝している」という言葉で始まりますが、確かに文法的には文章の終わりは5節ですから、そこまでが感謝の言葉ということになるのでしょう。しかし、続く6節は文法的には前の5節からは切り離されてはいますが、内容的にも、文章の流れから言っても、5節の言葉と密接に繋がっています。こうしてずっとたどっていくと、少なくとも10節までは一まとまりの流れと言うことになります。確かに一旦はそこで感謝の言葉は切れていると思いますが、2章13節で再び感謝の言葉が始まります。

 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(2:13)

 この言葉は、内容的には6節以下と深いかかわりがありますから、感謝のことばはここまで続いていると考える事ができるかもしれませ。とするならば、この手紙は他のパウロの手紙よりもずっと多く感謝の言葉を語っているということになります。

 ところで、パウロはテサロニケの教会に関して、どんなことを神に感謝しているのでしょうか。パウロはテサロニケの教会の人たちを思い祈る時に、三つのことを思い起こし、心に留めながら祈っています。その三つのこととはテサロニケの教会の人たちの「信仰の働き」「愛の労苦」、そして「希望の忍耐」という三つのことです。簡単に言ってしまえば「働き」と「労苦」と「忍耐」の三つです。そして、それぞれに「信仰」「愛」「希望」という言葉が修飾語としてついています。この「信仰」「愛」「希望」というのはとても有名な三つの言葉ですが、それはコリントの信徒への手紙一の13章13節で、「信仰」「希望」「愛」という順番で出てくることで特に有名です。コリントの信徒への手紙の中でパウロがこの三つの言葉を取り上げる時には、「愛」について特に語る文脈の中で言及していましたから、最後に「愛」を取り上げて三つのうちで最も大いなるものと位置付けました。しかし、このテサロニケの信徒への手紙の中では、「希望」が最後に述べられています。しかも、この手紙の中では単に「信仰」「愛」「希望」とは言わずに「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」と言う具合に、他の言葉を修飾する言葉として登場しています。そして、手紙全体の構成とあわせて考えてみると、この手紙にはテサロニケの教会の人たちが信仰によって働く様子、愛のために労苦する様子、そして、希望をもって忍耐する様子が見事に描かれています。3節に出てくる「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」はパウロがテサロニケの教会の信徒たちのことで神に感謝する動機を与えていますが、それは同時にこの手紙を構成する重要なテーマともなっているのです。

 ところで、「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」と原文を直訳しましたが、新共同訳聖書が翻訳しているとおり、それは「信仰によって働くこと」「愛のために労苦すること」「希望をもって忍耐すること」という意味で使っているのでしょう。信仰とはただ止まっているものではありません。それは活動的なものであり、働くものなのです。テサロニケの教会の人たちの信仰は正に生きて働く信仰だったのです。それは愛のために労苦することをもいとわないほどのものでした。こうしたテサロニケの人たちの愛について、パウロはこの手紙の後の方で、こう述べています。

 「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。」

 パウロをして、そう言わしめるほどの愛だったのです。

 さらに、テサロニケの教会の人たちの信仰生活はイエス・キリストが再び来てくださることを待ち望みながら忍耐深く生きる生活でした。確かにこの手紙の4章13節以下を読むと、テサロニケの教会では主イエス・キリストの再臨をめぐって、信仰が動揺するような出来事が起っていました。しかし、それは再び来てくださる来臨の主イエス・キリストに対する希望が失われたと言うものではありませんでした。むしろその逆で、この教会が心からキリストの来臨を待望していたからこそ、出てきた問題なのです。言い換えれば、テサロニケの教会の歩みは来臨の主イエス・キリストへの希望にかかっていたのです。
 このテサロニケの教会の「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」にともに倣いたいと願います。

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