BOX190 2005年1月26日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「キリスト教の賛美のあり方は?」 ハンドルネーム・子羊さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・子羊さんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

「山下先生、こんにちは。いつも番組を楽しみにしています。早速ですが、わたしの質問を番組で取り上げていただけたらと思います。

 わたしは、教会で用いられている音楽がとても大好きです。讃美歌に限らず、グレゴリオ聖歌も、カンタータも、それから、もちろんゴスペルや現代的な音楽も大好きです。伴奏無しの歌だけの曲も素敵だと思いますし、たくさんの楽器と共に歌う歌も素晴らしいと思います。どの曲にも何か魂を揺さぶられるような不思議な響きを感じます。

 ところが、ある人から聞いた話では、新約聖書の教会は旧約聖書の時代と比べて、儀式的なことよりも、もっと霊的で本質的なことを重んじるようになったそうです。確かに旧約時代の神殿での儀式一つを取り上げてみてもそのとおりだと思います。キリスト教会には動物の犠牲や神殿を飾る煌びやかなものは何一つ受け継がれていません。

 それで、その人の話では、教会の音楽に関してもそうあるべきだと言うのです。神殿の楽隊が使っていたラッパや琴やシンバルなどの楽器を使った賛美ではなく、もっと霊的な、歌声だけによる賛美こそ新約時代の教会にふさわしいと言うのです。確かに新約聖書を読む限り、キリスト教会で楽器を使った賛美について触れられている個所は見当たらないような気もします。

 そこで、質問ですが、新約時代のキリスト教会にふさわしい賛美のあり方というのがあるのでしょうか。よろしくお願いします。」

 子羊さん、メールありがとうございました。子羊さんと同じように、わたしも、様々なジャンルのキリスト教音楽を聞くのが好きです。いつも、それらの音楽を聞くたびに、それを作曲した人のこと、作詞した人のこと、それから、それらの曲を歌ったり演奏したりした人のこと、さらには、それらの曲を聞いていた時代の人のことをいろいろと想像してしまいます。キリスト教音楽と言うのはただ芸術の問題ではなくて、やはり、それを作り、演奏した人たちの信仰と深く関わっているのだと思います。子羊さんからのメールにもありましたように、非常にシンプルな歌声だけのものもあれば、壮大なオーケストラをバックに歌うものもあります。あるいはギターやドラムをバックに熱唱する歌もあります。楽曲に好き嫌いはあるかもしれませんが、むしろ、そこで歌われている信仰の内容に感動することの方がわたしには多いように思います。

 さて、ご質問の中心点は、キリスト教会にふさわしい賛美のあり方があるのかどうか、ということですが、この点についてはいろいろな議論があることだと思います。あまり問題を大きく広げても時間が足りなくなるだけですから、子羊さんの挙げてくださったポイントにそって考えてみたいと思います。

 子羊さんは特に旧約聖書の時代から新約聖書の時代にかけて、教会の賛美から楽器が消えていったことに関して、それが新約聖書の教会にふさわしい賛美のあり方として、必然的に起ったことかどうか、そのことを特に疑問に持っていらっしゃるのではないかと思いました。  ご指摘の通り、新約聖書を読む限りでは、賛美ということと関連して、楽器についての言及は全くといっていいほどありません。旧約聖書には様々な琴、太鼓、笛、ラッパ、シンバルなどの楽器が用いられていました。ところが新約聖書の中には黙示録以外の場所でそうした楽器についての言及は皆無に等しいと言えます。  もちろん、賛美そのものが教会から無くなってしまったのではないことは言うまでもありません。フィリピの獄中にいたパウロとシラスは真夜中に神への賛美を歌っていました(使徒16:25)。少し時代が後になりますが、小プリニウスが書いた手紙の中に二世紀初頭のクリスチャンたちの礼拝の様子が記されていますが、そこでも、クリスチャンたちはキリストに対して賛美の歌を歌い交わしていたことが記されています。しかし、その二つの記事の中には残念ながら楽器のことは触れられていません。楽器への言及がないということは、必ずしも楽器を使わなかったと言うことではないかもしれません。しかし、わたしは、その時代の人が楽器を使った賛美をしたとは思いません。  また、コリントの信徒への手紙一の14章7節には「笛」や「竪琴」について言及していますが、前後の文脈から明らかなとおり、それは礼拝で用いられる楽器についての言及ではありません。

 さらに、今日、教会の賛美の伴奏を担当する楽器として、オルガンが広く用いられていますが、教会の礼拝でオルガンが用いられるようになったのはずっとずっと後の時代です。少なくとも西方教会の礼拝での賛美の主流はグレゴリオ聖歌でしたから、楽器の伴奏なしの賛美が当たり前でした。  こうして見てくると、かなり長い間、キリスト教会の礼拝の中に楽器を用いた賛美が現れてこないと言うのは、動かしがたい事実のようです。しかし、そのことが信仰的な信念に基づいて、そうなったのかというと、必ずしもそうではないように思います。

 そもそも、キリスト教会はユダヤ教を母体としていると言うことは、一般的に知られているとおりです。そして、旧約聖書の神殿での賛美が数々の楽器を伴っていることはすでに見てきたとおりですが、では、キリスト教会がユダヤ教から出てきたときに、そうした楽器とも決別したのか、というと、そんな簡単な図式で言い表せるようなものではありません。

 キリスト教会が誕生するよりも前に、すでに、ユダヤ教の中では神殿での礼拝儀式と、ユダヤ人の共同体が持っていたシナゴーグ(会堂)での礼拝とが存在していました。エルサレムの神殿でどのような楽器を伴う儀式が行われていたのかは知りませんが、少なくとも、ユダヤ教の会堂では楽器が使われるということはありませんでした。もし、キリスト教会の初期の礼拝がこうしたユダヤ教の会堂で行われていた礼拝をモデルにしているとすれば、楽器を使うと言うことがなかったとしても不思議ではありません。

 それから、初代の教会は「家の教会」と呼ばれるものがほとんどでした。広い集会施設があるならまだしも、それほど大きな場所でもないところで、楽器を持ち寄って賛美を歌ったと言うことは考えにくいことです。また。器楽演奏を得意とする信徒も多くはなかったことでしょう。

 さらに、小プリニウスが描いていたビテニア州のキリスト教会の集会は迫害の厳しい時代の様子です。そういう時代に楽器を使った賛美を大々的に行うはずもありません。  以上の点を考えると、初代の教会で楽器を使った賛美が存在しなかったのは、信仰上の理由からというよりも、実際上の問題からではなかったかと思われます。

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