BOX190 2005年9月21日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「聖書が言う『死』とは?(2)」 神奈川県 K・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は先週いただいたご質問を引き続き取り上げます。神奈川県にお住まいのK・Mさん、男性の方からのご質問です。もう一度、お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組をいつも楽しみに聞いています。

 さて、きょうは『死』についての疑問にお答えいただきたく、お便りをしました。この『死』についての問題は普段何気なく聖書を読んでいて納得しているようでも、いざ、頭の中を整理しようとすると良く分からないことがたくさん出てきます。

 例えば、創世記で『善悪を知る木の実を食べると必ず死ぬ』といわれていますが、木の実を食べたアダムもエバもそのときからでも随分長生きをしました。かえって、その後のほかの人々よりも長生きをしたくらいです。創世記が言っている『必ず死ぬ』というのはどういうことなのでしょうか。

 また、新約聖書では死が入って来たのはアダムの罪の結果であるといわれています。そして、このことは具体的には善悪を知る木の実を食べたことと関係しているようですが、聖書の中で死ぬのは人間だけではありません。動物も死にます。その場合、動物の死も人間の罪の結果なのでしょうか。

 さらにまた、キリスト教では『死とは肉体と魂の分離である』といわれますが、そうすると動物が死ぬのも、魂と肉体の分離なのでしょうか。それとも、人間だけが魂と肉体が分離する死を味わうのでしょうか。魂と肉体が分離する死は、罪に対する罰なのでしょうか。それとも、自然なことなのでしょうか。クリスチャンの死はやはり罰として与えられるものなのでしょうか。イエス・キリストは、ご自分を信じる者は決して死なないとおっしゃいましたが、そのすぐ後で「たとえ死んでも」とおっしゃっています。キリストを信じるクリスチャンは結局死ぬのでしょうか。死なないのでしょうか。

 こんな風に考えてくると、さっぱり分からなくなってきます。どうぞ、よろしくお願いします。」

 先週は創世記の2章と3章に書かれていることを中心に、聖書がいう人間の「死」の意味を考えてみました。簡単に要約すると、こういうことです。

 創世記の2章と3章から理解できる「死」の意味は、人間が「命の源である神との交わりを失っている」という状態です。聖書にはこういう表現はありませんが、神との交わりを失っていることを、キリスト教では普通「霊的な死」と呼んでいます

 しかし、聖書がいう人間の死はただ単に「霊的な死」ということだけに限定されるのではありません。聖書は土の塵から造られたアダムが命の息を吹き込まれて、初めて「生きた者」となったように、死は、その逆のプロセスとして、命の息が取り去られ、肉体は土の塵に返っていきます。創世記2章と3章で言われている人間の「死」とは、そのことも含んでいます。人間に命の息が吹き込まれたことが特別のことであったように、命の息が取り去られることも、決して当たり前の自然の摂理ではないのです。

 さて、きょうは引き続き聖書から「死」についていくつかのことを考えてみたいと思います。

 まず、「死」について考える時に、新約聖書の中で最も良く知られている聖書の個所はローマ信徒への手紙5章12節以下の言葉です。

 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」

 ここでは、アダムとキリストを比べながら議論を進めています。創世記3章の話を振り返り、アダムが神との約束を破って善悪を知る木の実を食べたことによって、死がすべての人に及んだことが述べられています。ここでパウロが念頭においていることは、神との交わりを失っている霊的な死ということよりも、むしろ、それをも含んだ肉体の死の問題です。ローマの信徒への手紙5章と6章に出てくる「死」という言葉は、キリストの死と復活という大きなテーマが織り込まれた文脈の中で出てきます。キリストの死と復活がリアリティのある事柄であるのと同じように、ここで扱っている「死」は、霊的な死というような、目に見えない現実ではなく、もっと五感で感じ取ることができるような人間の現実の死の問題です。そのような現実の死の問題を、アダムの罪の結果としているのがこの個所です。  そこでK・Mさんは、そういう現実的な死は動物にも起こることですから、動物の死もまた罪の結果であるのかと質問してくださっています。

 少なくとも、動物の死は動物自身の罪の結果ではないことは、簡単に答えることができます。なぜなら、聖書がいう「罪」とは神の御心である「律法」と関係しているからです。人間に律法が与えられているのは、それに対して応答することができるということが前提です。動物は結果として神の御心に反することをするかもしれません。しかし、そもそも律法に対する応答が動物には求められていないのですから、動物が罪を犯すとはいえないのです。従って、動物の死は罪の結果であるはずがないのです。

 確かに旧約聖書コヘレトの書3章19節には「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しい」という言葉があります。コヘレトの書はさらに続けてこういっています。

 「すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」

 このコヘレトの言葉は人間の死と動物の死に、まったく違いがないことを言っています。ただし、そこでは死と罪との関係はまったく触れられていませんから、このコヘレトの言葉を証拠に、動物も人間と同じように罪のうちに死んでいくと結論付けることはできません。むしろ、この個所は人間の死が動物の死と変わることがないという、人間の死のむなしさを語っている個所です。本来ならば、人間の死は動物の死よりも尊厳があるといえそうなのですが、人間も動物も息を引き取り肉体が朽ち果てると言う点からすれば、人間の死に動物にまさる尊厳はないのです。そもそも、聖書の中で死は罪の支払う報酬なのですから、そこに動物の死以上の尊厳を望むことはできないのです。

 もし、「動物もまた罪の結果死んでいる」とあえて言うのであれば、それは動物自身の罪の結果なのではなく、人間の罪の結果、無意味でむなしい死を動物たちが迎えているということでしょう。ローマの信徒8章21節でパウロは「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と述べています。動物が本来は永遠に生き続ける存在であったのかどうかと言うことは聖書に記されていませんが、少なくとも、人間の罪の結果、本来は自然なものであった動物たちの死の意味も、滅びへの隷属でしかなくなってしまっているのです。そういう意味で、人間の救い、死から命への回復は、すべての被造物にとっても希望なのです。

 さて、K・Mさんのご質問にはまだ十分答えきれていませんので、来週もう一度だけ、取り上げたいと思います。

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